第3回「記事は誤報と言ってるぞ」 黒田日銀に嫌われた記者のこだわりとは
様々な危機に見舞われ、「失われた時代」とも言われる平成の経済を経済記者として見つめ続けた原真人記者(現編集委員)は、日々おこなわれる記者会見は新聞記者にとって真剣勝負の場だと言います。なぜ、そう考えるようになったのか。勝敗はどうだったのか。来し方を振り返り、記者会見の意義、そこから浮かぶ未来への教訓についてつづります。
この10年あまりの日本銀行総裁会見ほど、新聞記者としての矜持(きょうじ)が試されていると感じた記者会見はなかった。黒田東彦総裁(2013年3月~23年4月)の定例会見で、私は何度も「質問外し」をされ、無視され、まれに質問が出来たとしても、けんもほろろの対応をされ続けた。
一昨年に刊行した拙著『アベノミクスは何を殺したか』(朝日新書)の表紙の帯に編集者からの紹介文が「黒田日銀に最も嫌われた記者」と載っている。おおげさでも何でもなく、本当にそうだったのだ。
私の質問にまともに答えようともしない金融政策の〝大権力者〟に対し、なんとしてもそのまま引き下がるわけにはいかなかった。権力を批判する質問の制限ひとつが、やがて全体を萎縮させていく。権力者に批判的な質問ができなくなる世の中では、民主主義を続けることはできない。それはロシアや中国での記者会見を見ていればわかる。ならば辛抱強く問い続けるしかない。まともな答弁が期待できなくとも、こちらがあきらめれば権力者が喜ぶだけだ。
かくして私は黒田日銀の10年間、内勤の仕事で出席がかなわなかった1年あまりを除いて総裁会見に出席を続けた。まともな答弁が今日もなかった、と確認する。ただそれだけのために――。
どうしてここまで記者会見にこだわるのか。
先輩記者の重い言葉
30年以上も前のこと、駆け出し記者のころ、キャップだった先輩記者からこう言われたことがある。
「夜討ち朝駆けでつかみとった特ダネはもちろん立派な仕事だ。だがもっと価値がある記事がある。記者会見で引き出した言葉でつかむ独自の切り口による特ダネだ」
他社の記者たちも聴いている会見の記事に、そこまで価値をもたせることができるものだろうか。そのときには言葉の意味がよく理解できなかった。
その後、数え切れないほどの記者会見を経験した。出席した数はゆうに2千回を超えている。出来の悪い質問を発して後悔したこともある。のらりくらりの答弁に業を煮やしたこともある。後になって「すっかりだまされていた」と気づき、取材力の乏しさを反省したこともあった。なるほど、という名答弁に感心するあまり、次の質問が飛んでしまったこともあった。
そんな経験を重ねるうちに、あの先輩の言葉の意味がなんとなくわかってきた。
記者会見は新聞記者にとって真剣勝負の大舞台である。そこで引き出す言葉の一つひとつが、歴史の証言となる。その内容をいかに磨き、どう積み重ねていくか。そうした作業そのものが、自由で民主的な社会を作るための基盤に他ならない。それを生かすも殺すも、記者次第なのだ、と。
我が会見取材の記憶をたどって思う。なぜあれを聞かなかったか、どうしてその意味に気づかなかったか。満足できたためしなどない。悔いることばかりだ。ただ、それら一つひとつにもなにがしかの意味があり、記者としての蓄積になってきたのも確かだ。
会見にまつわる苦い記憶、忘れがたい思い出の幾つかを振り返り、記者会見とジャーナリズムについてあらためて考えたい。
通産相が口にした驚きの発言
まずは苦い思い出から。
1992年秋、私は経済記者として通商産業省(現在の経済産業省)を担当していた。カナダの片田舎、ケンブリッジで開かれた4極通商会議の取材で大臣に同行して出張したときのことだ。会議を終えた渡部恒三通産相が10人足らずの日本の同行記者団を集めて記者会見を開いた。会議は田舎町の小学校を利用して開かれていたので、会見場は教室の一角だった。
ふだんは児童たちが使っている木製の椅子を並べ替えてミニ会見場に仕立て、通産相を囲んだ。司会もおらず、渡部氏の気さくな人柄もあって、なごやかな雑談会のような雰囲気だった。会議の内容はすでに通産官僚から取材ずみだった。4極の大臣たちの共同記者会見も終え、記事はすでに出来上がっていた。ふだんと異なり、大臣をねぎらう懇談会のような気分になっていた。
渡部通産相から会議の感想を聞くやりとりが30分ほど続き、誰もが「とりたてて原稿に付け加える内容はないな」と思い、会見が終わろうとしていたその時、通産相がやおら、こんなことを言い出した。
「11月に農水省がガットで日本の主張を取り上げるよう折衝する。どこかで最終的な決断を下さなければならないなあ」
このころ、ウルグアイ・ラウ…