音楽に批評は必要か サブスク時代、変わるリスナーと価値付けの意義

河村能宏

 音楽について語り合う。そんなこと、久しくやっていない。そもそも、他人に「好きな音楽は何?」とたずねることすら、プライベートを詮索(せんさく)するようで、どうにも、躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだ。

 音楽を語るといえば、音楽批評の記事も、目にする機会が減った。レコード会社やミュージシャンに忖度(そんたく)せず、作品や音楽作品を価値付けする営みは、ひょっとして絶滅危惧種なのだろうか。

 いま、音楽を取り巻く言説の構造が大きく変わっている――。そう語るのは、ポピュラー音楽研究者で、大阪公立大学の増田聡教授だ。音楽語りの現在地について、聞いた。(聞き手・河村能宏)

 ――ドラマや映画を見て、友達や同僚とあれこれ『良い/悪い』を語ることはあるんですが、音楽においては、「誰かと語り合いたい!」と思えなくなっている自分がいます

 「ポップミュージックについては、音楽の量が増えすぎてしまいましたからね。ラウドロックが好きな人と、ボカロが好きな人は語り合えません。『僕はこれが好き』『私はあれが好き』。はい、それで終了。話し合うって、一体何を話し合えばいいのか」

 「今の時代は、音楽という一つのカテゴリーではなく、無数の、文脈の異なるジャンルがあり、しかもそれらが聴き手のアイデンティティーと深く結びついています。気軽に音楽の話、ましてや批判なんてできないですよ」

 ――アイデンティティー……確かに、他人から好きな音楽をけなされると、自分が否定されたように感じてしまいます

 「音楽は、絵画のように距離を持って鑑賞する『芸術』のカテゴリーとして扱いがちですが、現在のメディア環境下では、絵画と音楽は全く別の役割を果たしているように思います。音楽社会学者のサイモン・フリスが指摘していますが、音楽は『絵画』ではなく、『衣服』と同じカテゴリーに属する、と考えた方がよい」

 ――音楽が衣服と同じなんですか!?

 「こんにちの音楽は、皆で鑑賞するというより『個人で選んで身につけて持ち運ぶもの』になっている。いわば衣服に近いのです。その音楽が『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれる。それを第三者が『イケてないね』と指摘すると嫌な気分になる。音楽は公共的なものというより、自分のプライベートな生活のなかで用いるもの。そういう感覚が強まっているように感じます」

 ――コンサートは別にして、日常の中で、みんなで音楽を聴くことってないですね

 「1979年に初代ウォークマンが発売された時、イヤホンジャックは二つありました。2人で同じ音楽を同時に聴くことが想定された設計になっているのは、技術者の中で『音楽は複数人で共有されるべきもの』という感覚があったからです」

 「でも、実際はそういった使われ方はされず、その後携帯音楽プレーヤーのイヤホンジャックは一つであることが標準となった。気に入った音楽は共有せずに私有し、一人で享受する。音楽は、そういったプライベートな消費対象へと変化していったんです」

 ――音楽のサブスクモデルが日常化し、自由に好きな曲を選べる時代です。パーソナル化はより強まっているかもしれません

 「ただ、音楽は多面的なメディアなので、私的な愛着に基づいて多くの人が受容していたとしても、異なった文脈に接触することで公共的な影響を及ぼしてしまう」

 「今年、『Mrs. GREEN APPLE』のミュージックビデオが、植民地主義を想起させるなどと批判を浴び、ネットで炎上する騒ぎになりました。SNSなどでバンドを擁護するファンは、『自分のお気に入り』をプライベートに擁護するわけですが、やはり他方ではその『お気に入り』もパブリックな文脈と接しているため、単に『自分が好きだから、口を出すな』では済まなくなるのです」

90年代以降、「批評」より重視されたのは

 「とはいえ、公的な評価にさらされる『芸術作品』というカテゴリーから、個々人のアイデンティティーに結びつく私的な『愛着の対象』に、音楽の社会的位置が移動しつつあることは明らかです。AI(人工知能)がさらに発展すれば、そのうち『私の気持ちにぴったり対応する音楽を生成する』サービスが絶対出てきますよ。大量生産から個別オーダーへの変化です」

 ――そう考えると、今の時代に音楽の「良い/悪い」を価値付けする批評の営みは受け入れられないのかもしれません。昔はミュージシャンの新譜が出たら、それを評価する営みが、音楽雑誌を中心に盛んでしたが……

 「こんにち、若い人は特にそうですが、個々人が主体的に行った判断を過度に尊重しようとするので、客観的に『このバンドはいい』とか『悪い』とかいう評価言明には傷つくし、倫理的によくないとすら思っているかもしれません。だからそういう批評は求められなくなる」

 「さらに音楽について言えば、消費のあり方が大きく変化し、音楽消費において他人の価値評価に依存する度合いが低下しつつあることも大きいと思います」

 ――どういうことですか?

 「批評とは『対象について根拠を示し、その価値付けを行う言説』ですが、同時に広告としても機能します。例えば、私もマスメディアの依頼で書評を担当することがありますが、学術書であっても書評がメディアに載れば、宣伝になるから出版社が喜ぶわけじゃないですか。どんな批評であっても本質的には広告的な機能を備えているのです」

 「レコードやCDが音楽メディアの主流だった時代、消費者が音楽を聴くためには支払いが必要だったわけですよね。聴き手は、効率よく『良い音楽』にたどりつきたい。そこでは音楽評論家は商業的なゲートキーパーとして機能していたのです。音楽批評が『聴くべき音楽』を提示することで、消費を方向付ける役割を果たしていた。『●●な基準からすれば、この音楽は重要です』という価値評価は、同時にバイヤーズガイドの機能も持っていたわけです」

 ――ゲートキーパーは広告そのものではなく、広告的機能を持つ批評というのがポイントなんですね

 「ストレートな広告の言説は資本主義がむき出しですから、消費者もそれに素直には従わないわけです。音楽の宣伝は洗剤の宣伝とは異なる。だから、音楽消費に誘う語りの中には、『お金もうけとは別の次元で重要なこと』『文化的に重要なもの』があるに違いない、と読み手に思わせる必要がある。それを結果的に担っていたのが音楽批評でした」

 ――そんな批評が、今の時代なぜ受け入れられなくなった?

 「こんにちのわれわれは、サブスクリプションサービスの普及によって、何でもすぐに簡単に聴ける音楽流通の環境下にいる。そのような流通環境ではかつての批評が持っていた広告機能の必要性は低下することになります。それよりも、サブスクが提供するプレイリスト、『名盤ベスト100』みたいなものを流しっぱなしにしつつ、その中で気に入った音楽を探す方が消費の効率は良くなります」

 「音楽産業が重視するのは、批評的な評価などよりも、個々のエンドユーザーにその音楽を提示し、面白いと思ってもらえる窓口をどうたくさん供給するかです。例えば90年代はCMやドラマのタイアップが窓口の役割を果たした。『露出』が『批評』よりも重要になっている」

団塊ジュニア世代に刺さったロキノン批評

 「音楽で露出させる。映像で露出させる。言葉で露出させる……。いろいろなチャネルを使って、露出させ、聴いてもらい、そこにアイデンティファイしてもらって、ライブに来てもらう。アイドルの世界では、性的魅力を用いることもありますよね」

 ――確かに、握手会にはそういう側面がありますね。そこでは、音楽批評はほとんど重要ではない

 「録音された音楽は、消費者が個々の音楽に直接対価を投じなくても聴くことができる時代になった。そんな時代、『何を聴くべきか』という価値的な指針を示すことの意義はどうしても低下してしまいます」

 「音楽は他の文化ジャンルに比べて、流通形態・流通メディアの変化が極めて激しく、批評が役に立たなくなる度合いが目に見えて生じている。近年、『音楽評論家』ではなく、『音楽ライター』を名乗る人が増えているのも、そういう『批評・評論ニーズの低下』といった背景があるのではと思います」

 ――そもそも、長らく音楽批評の多くが、「録音物の価値付け」なのはなぜでしょう。日本は特に録音物への執着が強い気がします

 「僕がかつて指導していた修士課程の大学院生が、2年前、戦前のレコード批評に関する修士論文(『戦前日本のレコードによる西洋音楽の受容』)を執筆しました。これが割と面白く、ふむふむと読みながら思ったことがあります」

【論文は、クラシックの本場・西洋の演奏会に気軽にアクセスできない状況下にあった戦前の日本で、西洋音楽がレコードというメディアを通してどのように受容されていたのかを鋭く考察している】

 「日本は西洋音楽を受け入れるにも、地理的に極東に位置していて遠く離れている。だから日本社会で西洋音楽を受容する前提として、レコードは生演奏の代用品というよりも、芸術性が宿る『本物』という捉え方が強かったように思います」

 「国内でへたくそな生演奏を聴くより、海外で録音されたレコード=複製物の方が音楽としての質が高いという受容の歴史があった。そうしたモードが、のちに日本の音楽批評とレコード産業との強い結びつきを構築していったところがあるのかもしれません」

 「服部良一は戦前から当時の最新のアメリカ音楽、スイングやブギやブルースを取り入れていたけれど、やはりそれは『ドメスティックな翻訳』であり、『本物』は海の向こうからやってくるレコードでしか聴けないものになる。だから、レコードに対する評価や批評というものが、日本の西洋音楽受容の歴史のなかでは重要になってきたのです」

 「日本は音楽産業史的にも批評言説的にもレコードの地位がすごく高かった。『身の回りの生演奏よりもレコードの方が質の高い音楽だ』という意識が戦前の音楽批評には見受けられ、受容の対象がクラシック音楽から米国のジャズやロックへと移っても、レコード批評の音楽受容におけるある種の『正統性』が引き継がれていったのではないかと感じます」

 ――話はずれますが、そう考えると、音楽雑誌「ロッキング・オン」は少し毛色が違いますね

 「レコード批評というより、ミュージシャンの生き様に深入りするタイプの批評ですよね。90年代にたいへん影響力を持ちましたし、私も熱心な読者の一人でした。あの雑誌が売れたのは、音楽の供給量が増大する一方で全てを聞くわけにいかず、消費する音楽を自ら選択する必要があった時代、自分の選んだ音楽やミュージシャンに、自身のアイデンティティーを重ね合わせつつ音楽を消費する、団塊ジュニア世代のあるタイプの消費行動が背景にあったように思います」

 「今の若い人は、ボカロ楽曲などを聴いたりするわけですが、その作り手の『生き様』に関心はさほどもたない。adoの人となりに興味を持つ人もあまりいません。音楽家のライフストーリーに対する関心はかつてより低下しており、尾崎豊のファンがそうしていたように、音楽家に自身の人生を過剰に重ね合わせて聴くことは少なくなりました」

 ――いずれにしても、サブスクやYouTubeなどで効率的に音楽が探せる時代は、批評の影響力は弱くなった、と。でも、消費の効率化とは別に、様々な音楽を吸収し、ポピュラー音楽の世界を体系的に学びたい、という教養主義的な志向を持つ人も、批評を頼っていたはずでは。そういう層はどうなった?

 「教養主義とは、対象に関する知識を、何の役に立つのかわからないけれど、とにかくコンプリートしたい、音楽なら音楽の歴史を自分なりに体系的に把握し理解したい、という欲望です。かつての『ミュージックマガジン』を読むようなタイプの人は、そういう教養主義的な感覚をポピュラー音楽の領域で保持していたように思える」

活性化する歌詞「考察」ブログ

 「今年刊行された山崎隆広『音楽雑誌と政治の季節:戦後日本の言論とサブカルチャーの形成過程』(青弓社)では、そういった日本的教養主義とポピュラー音楽批評の関係が巧みに分析されており興味深いです」

 「けれども、そういったポピュラー音楽における教養主義的欲望もまた、批評の裏側にあった広告機能がドライブしていたものであるように思えます。音楽的教養の基盤となるレコードを買うにはお金がかかるからです。系統的に集めようにも、知見がないと次にどのレコードを買えばいいかわからない。限られたお金をどの音楽に投じていいかわからない。そこでは『これは聴くべき音楽だ』という価値評価の言説が消費を促していくことになる」

 「つまり、かつては、さきほど述べた消費の効率化みたいなものと、教養主義的なものが一種の共存を果たしていたところがある。『自分が好きになるであろう曲に出合いたい人』と、『音楽を体系的に押さえたい人』が、どちらも批評を頼るという構造があった。しかし、サブスク時代になり両者は分離してしまう。後者は「批評」に郷愁を感じるのかもしれませんが」

 ――教養主義者にとっても、批評に求める機能が大きく変わった?

 「最近、音楽批評的な言説のなかで活性化しているものとして、Jポップ曲の歌詞を考察するブログが挙げられます。人々に対し、『この音楽は価値が高いから聴きましょう』と促すのではなく、すでに曲を聴いた人に対して『より深い』意味を解説する、という構えのものです」

 「その多くは思い込みや狭い文脈からの解釈、背景知識の不足が目立ち、プロの音楽評論家の水準からすればたいしたことのないレベルの『考察』に過ぎないのですが、そのような『批評』にニーズはある。そのような言説の活性化が示すのは『すごく好きな曲の意味がよくわからないから、何言っているのか知りたい』といった消費者の存在で、それはかつての広告として機能していた批評の役割とはやや異なる方向性を示しているように感じます」

 ――「批評」と呼ばれるものの内実が変わっている、と

 「『考察ブログ』の活性化は、音楽を取り巻く言説構造の変化を示しているように感じます。大雑把に整理するならば、音楽言説に求められる機能が、『価値付け』ではなくなり、『解釈』や、音楽をよりよく理解するための『背景知識』へと移っている。『良い/悪い』は自分で判断するから、他人からあれこれ言われる必要はない、ということになる」

 「広告機能、意味付与機能、評価機能などを兼ね備えていたかつての音楽批評は、解体、分散した、と言えるかもしれません。何を買えばいいか、何を聴けばいいかは、批評言説を読んで各人が判断する水準ではなく、amazonのレコメンド機能が行っているようにアーキテクチャーの水準で実現されるようになっている。一般の消費者はそれに従っておすすめを聴けば『どの音楽を聴くべきか』などといったことに悩まされることなく快適ですから」

 「そういう快適さとは異なるものを音楽言説に求める消費者層も少数ながらやはり存在しています。例えば『あの曲を理解したい』『あのミュージシャンの人気が歴史的、社会的にどう位置づけられるかを知りたい』といったニーズは、批評ではなく学術的な研究、つまり価値評価を志向しない言説が担うようになってきたようにも感じられる」

 「私自身も従事しているわけですが、ここ数十年でアカデミックなポピュラー音楽研究はとても拡大してきていて、研究書なども活発に刊行されるようになっているのですが、その背景にはこういった『価値判断の役割の低下』と『解釈や背景知識のニーズ上昇』があるのかもしれません」(河村能宏)

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    松谷創一郎
    (ジャーナリスト)
    2024年11月16日11時0分 投稿
    【提案】

    音楽における批評の構造的変化と「考察系」コンテンツの台頭について、とても興味深い視点が示された記事でした。 これは私見ですが、従来の「批評」には大きく分けてふたつつの「政治」的機能が存在していました。 ひとつは批評空間、つまり論壇における政治です。数千部規模の批評誌で展開され、ときには一般紙にも影響を及ぼすような言説空間での影響力です。 もうひとつは音楽業界に対する政治です。価値付けを通じて、アーティストやレーベルに働きかける機能です。 私は映画が専門ですが、映画批評の世界ではこの政治性がとても顕著でした。かつての映画評論家たちは、非常に権威的な立場から発言ばかりしていました。これは批評媒体としての雑誌の影響力が強かったことに加え、金曜日の新聞夕刊に掲載される映画評が実際の興行成績に影響を与えるなど、批評が実質的な「バイヤーズガイド」として機能していたためです。 しかし、現代ではコンテンツ量が爆発的に増加し、さらにネットで誰もが簡単に評価にアクセスできるようになりました。結果、批評家の存在価値は相対的に低下しました。若者たちが、権威者による価値付けよりも、友人の感想を重視する傾向にあるのは、むしろ自然な流れです。 このような状況下で台頭してきたのが「考察系」コンテンツなのでしょう。単純な価値判断(「良い/悪い」)は誰にでもできますが、深い考察には相応の知識の蓄積と、それを効果的に伝える能力が必要とされます。従来の批評媒体、例えば『ロッキング・オン』などの音楽誌や『キネマ旬報』などの映画誌は、アーティストや監督、俳優のパーソナリティへの関心や作品の価値付けに重点を置き、考察的な側面が比較的弱かったと言えます。 音楽コンテンツにおける変化も注目に値します。増田さんはつい先日、私との雑談のなかで、受容側の評価に「パーソナリティ」と「芸(音楽やパフォーマンス)」というふたつの要素があると指摘しました。これはビルボードジャパンの磯崎氏が指摘した「アーティスト」と「楽曲」という区分とも重なります。 たとえばアイドル文化ではパーソナリティの比重がとくに大きく、ファンは「推し活」としてCDを購入するなど、音楽そのものよりもタレントへの愛着に基づいて行動します。2010年代のAKB48やジャニーズは、このパーソナリティ重視の戦略を取り、結果として音楽やパフォーマンスの質が二の次になる傾向がありました。アーティストが愛されていれば、音楽内容はトンチキでもなんでも問われない状態だったわけです。 しかし、近年のK-POPの台頭はこの傾向に一石を投じています。K-POPは「音楽をちゃんとやるアイドル」だからです。それは、パフォーマンスの質や音楽性へ回帰する兆候と捉えられます。 ただしこれはアイドルには限りません。ロック文化においても同様の課題を抱えていました。『ロッキング・オン』的な批評文化は、まるでワイドショー的にパーソナリティに注目し、音楽内容の分析が疎かになりがちでした。 現在の「考察系」コンテンツの人気は、このようなパーソナリティ偏重への反動として捉えることができます。作品そのものへの深い理解と解釈を求める声が、新しいかたちの音楽言説を生み出しているのではないか、と。この記事を読みながら、そんなことを考えました。

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