「パリは燃えているか」ヒトラーは繰り返した パリ解放から80年
80年前の1944年8月25日、パリを防衛するドイツ軍司令官コルティッツが降伏文書に署名し、パリが解放されました。ただ、パリ解放に至る道のりは、平坦(へいたん)ではありませんでした。防衛研究所の立川京一戦史研究センター長は、ロンドンを拠点とした亡命政府「自由フランス」の指導者だったドゴールと、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相らとの様々な対立が、戦後の「ドゴール主義外交」と呼ばれる仏独自の外交路線が形作られるうえで影響したと指摘します。
――英米などの連合国軍は44年6月6日、仏ノルマンディーに上陸しました。
ドゴールがノルマンディー上陸作戦の実施を知ったのは直前の6月4日でした。ルーズベルトがドゴールを信用しておらず、知らせようとしませんでした。40年9月、自由フランスと英軍が、北アフリカの仏植民地で、ペタン元帥を国家元首とする仏本国の(対独協力政権である)ビシー政権の統治下にあったダカールを攻略しようとして失敗したことがあります。
ルーズベルトは、事前に自由フランスから情報が漏れていたという疑念を抱いていたのです。
また、米英にしてみれば、国家元首でも政府の首班でもなかったドゴールを亡命政権の長として扱う必要を感じていなかったと思います。
連合国軍はノルマンディー上陸後も、パリを迂回(うかい)して西部戦線のドイツ軍を駆逐することを優先する方針でした。ルーズベルトはドゴールを嫌っていたこともあり、とりあえず、フランスに軍政を敷き、民主的な選挙を経て、フランスに新政権をつくる考えでした。
なぜ連合国軍は「パリ迂回」から「早期解放」に転じたのか
――なぜ、連合国軍は早期の…
- 【視点】
「パリは燃えているか」の言葉の背景がよくわかる、記事でした。 同時に、ドゴール氏の動きや米政府側の事情もよく理解できました。 筆者は在英ですが、ドゴール将軍というと、第2次大戦でドイツ・ナチスの占領下に置かれるフランスから、英国に亡命し
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