妻と猫2匹と香港から「亡命」 民主派元区議が日本の選挙に思うこと

メディア・公共

大学院生・香港の元区議 葉錦龍(サム・イップ)=寄稿

香港の元区議・葉錦龍さん寄稿

 このところ、東京の街で都知事選や都議補選のポスター掲示場を眺めては、しみじみ感じ入った。方法はともあれ、候補者たちがそれぞれの考えをもって立候補し、この国や街のあり方を自由に訴える。民主政治と自由が存在するそんな社会が、いかに幸せなことか。

 2022年10月、私は妻と2匹の猫とともに、香港から成田へ飛び立った。次第に遠ざかる、日差しを浴びた香港の街並みを上空から見下ろしながら、2人とも涙があふれて止まらなかった。ほっとする気持ちもあった一方で、もしかしたら二度と、生まれ育ったこの街に戻れないのではないかと思うと、切なくて仕方がなかった。

 私は、日本のアニメや漫画が大好きで日本語を独学で学び、日本語通訳とイベントプロデューサーの仕事もしていた。それが14年の雨傘運動、19年の「逃亡犯条例」改正案への大規模デモにも参加し、民主派の区議になった。警察に逮捕・拘束もされ、その過程でけがも負った。

 幼い頃は中国の発展をまぶしく見ていた。そんな私がなぜ、香港を出て、日本で暮らすことになったのか。日本に「自主亡命」した私のたどった軌跡を振り返り、自由だった社会がいかにあっという間に変化してきたか、知ってもらえればと思う。

 香港といえば、「百万ドルの夜景のある街」、あるいは「アジアの国際金融都市」というイメージを持つ人も多いだろう。そんな香港で、私は1987年に生まれた。当時、日本はバブルの真っ最中。海外旅行ブームにわいた日本から、買い物などのために香港に大勢押し寄せた。

 両親は中国大陸の農村出身で、文化大革命を逃れて香港に密入境し、香港の永住権を獲得した。つまり、私は文革の亡命者2世だ。

 当時の中国の農村は貧しく、両親が帰省で訪ねるたびに、服を多めに着て、電気製品なども携えては親類に譲っていた様子を鮮明に覚えている。そのうち、村の農地が香港や台湾の資本の工場に建て替えられていったことも印象に残った。

 英領だった香港が97年に中国に「返還」されてからは、小学校でも中国について学ぶ機会が増えた。私が通った中学・高校は、英領時代に英国王エドワード5世にちなんで設立された「英皇書院(キングスカレッジ)」だが、その校章からも英国の王冠が消えた。

 中学2年生の時、学校の推薦枠で1週間ほど、上海の小学生とITについて交流する機会があった。欧米風の風景が広がる外灘、そして更地から一変したばかりの浦東新区を眺めながら、中国はますます発展するのだろうと思った。

日本語を独学

 高校に進学し、日本のアニメと漫画を読むようになって、最新の連載をいち早く読みたい気持ちから独学で日本語を学び、日本語能力試験の2級に合格した。航空整備士の専門学校時代は、学費を稼ぐために、香港の日本アニメ関連のコンサート企画・制作会社に入り、日中通訳のアルバイトをした。卒業後は日中通訳の仕事を本業とし、アニメイベントのコンサルタント兼制作プロデューサーにもなった。

 こうした学業と仕事を通して、政府部門も含めて中国の人たちと触れ合ってきたが、多くの人は優しかった。もっとも、「日本関連の仕事をする香港人」という風変わりな自分に対し、陰で私を「漢奸(かんかん)」(売国者)呼ばわりする人もいたけれど。

 表現の自由が徐々に統制されているのでは――。そう肌で感じる経験もすでに起きていた。外国人の芸能興行の前に、歌詞カードは原文と中国語翻訳をそろえて事前に提出し、審査を受けなければならなかった。審査の前に中国のビジネスパートナーから「こうした方がいい」と「アドバイス」されたこともあった。

 2010年、沖縄県・尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起きた時、私がかかわっていた上海万博の日本アニメ関連の仕事もいくつかキャンセルになった。ビザと外国人興行許可などは有効だったのに、「継続してもいいが、安全は保証しない」と中国の政府関係者に言われ、キャンセルせざるを得なかった。

雨傘運動に参加、区議選に挑戦

 私が14年の雨傘運動に参加したのも、こうした一連の経験で、中国の政治や社会制度に疑問を抱くようになったことが背景にあった。

 雨傘運動では、状況によってはデモ参加者を束ねるバリケードのリーダーになった。翌15年には、市民の参加で草の根の民主主義を実現しよう、それを自分の身近な場所で実現しようという思いから、生まれ育った地区で区議選に立候補した。500票差で敗れたが、仕事の傍ら、住民の悩みや相談を聞きながら、政治活動は続けた。大学の学位も取り、日本語能力試験で最難関のN1も取得した。

 19年に入り、香港人の容疑者を中国本土に引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正案へのデモが大きな規模で広がり、私も友人に頼まれて集会の司会をやるようになった。

 そんなさなか、9月1日のことだ。ある警察署近くの歩道を横断しようとしたところ、私服警官にいきなり押さえられた。

 容疑は器物損壊と公務執行妨害の罪。36時間、拘束された。

 それでも11月、デモの真っ最中に実施された区議選に再度立候補した。「選挙よりデモ参加者の身の安全が心配」という気持ちもよぎったが、香港市民の民主化への希望を選挙を通じて実現したいと思った。今度は500票差で勝利を収めた。

 ただ、区議に着任するや、6年間勤めたイベント会社を解雇された。理由は「経済状況が悪化する見込みのため」。イベント企画も休止と言われた。さらにコロナ禍が始まり、通訳の仕事もなくなった。

 中国政府はさらに、反中国的な言動を取り締まる「香港国家安全維持法(国安法)」の施行を宣告。20年の立法会選挙に向けて民主派が行った予備選挙は違法とされた。当時多くの区議が予備選のための投票所の準備に携わったため、区議が国安法に問われるのではないか、という恐れも高まった。

 それでも、区議の仕事は続けた。20年5月24日のデモで、私は区議の一人としてデモの安全を見守っていた。すると再び、警官に逮捕された。頭を殴られ、ひざを蹴られ、ひざの靱帯(じんたい)に1カ月の傷を負った。拘束は42時間に及んだ。

 今度はいつ、国安法で逮捕されるかわからない――。そんな疑心暗鬼が漂い、民主派政治家たちによる政治団体「民間人権陣線(民陣)」の幹部をしようという人も見つかりづらくなった。私は立候補し、民陣のナンバー2である「副召集人」に就任した。

 それからまもなく、20年10月19日のことだ。ある朝6時ごろ、私の実家にノック音が響いた。当時の民主派の間では、「朝6時コンコン」といううわさが広がっていた。朝6時にノック音が鳴ったら、それは家宅捜索と逮捕のためにやって来た国安警察だという話だ。私はこの時は実家にいなかったが、逮捕された。国安法容疑かと心配したが、幸い、と言っていいかわからないが、19年の関連での逮捕だった。すぐに保釈されたが、「出国禁止」が科せられた。この保釈条件は21年11月11日、無罪判決が出るまで続いた。

 香港の政治状況はますます厳しくなっていった。立法会の選挙制度も変えられ、議員は政府に忠誠を誓わなければならなくなった。「宣誓しなければ法に基づき逮捕し、議員歳費などを返上」といった話も地元メディアで一時流れた。私の歳費や政務活動費などは、1年半で約180万香港ドル(当時約2500万円)に上る。私を含めて多くの議員は、宣誓せず辞職を選んだ。

 議員を辞めても、これまでの行動が国安法違反に問われるリスクがあまりにも大きい。さらに、私たちの政治活動や個人情報などもネットにさらされて、就職は難しくなっていた。自分で起業しようとしても、貯金の多くは議員活動などで使い果たしていた。次第に、香港での生活基盤が保てなくなったように感じた。

 香港を出よう。そう準備し始めたのは21年末のことだ。

 妻とは19年の大規模デモで知り合い、国安法施行の20年6月30日にプロポーズし、結婚した。彼女は中国情勢やハイブリッド戦争の研究者で、英語やフランス語、イタリア語など7カ国語を操る。私は日本語が得意だ。香港で政治活動をした経験者は日本にはまだ少なかった。私たちの経験を日本から伝えることで、香港に関心を持ってもらう役に立てるのではないかと思った。家族同然の2匹の猫の「移民」の準備もしなければならず、遠い英国などに行くより、香港により近い東京の方が、家族と猫の幸せのためにも良いのではないか。そう思い、日本に移り住むことにした。幸い、日本にいる知人の協力で無事、在留資格を得ることができた。23年4月からは東京大学大学院総合文化研究科の修士課程で、国安法後の香港情勢や東アジア政治について研究している。

アジアの民主主義のとりで

 香港は、私たちが離れた後さらに変化した。24年3月に施行された「国家安全維持条例(国安条例)」は国安法より厳しい。私も参加している、元区議らが域外で結成した「香港公民代表会議」も、国安条例に反対意見を出しただけで、香港政府に「境外反華組織」に指定された。

 民主主義の日本からすると、「近いけれど遠い香港の話」と思う人もいるかもしれない。でも香港は、政治面でも経済面でも、日本とかかわりが深い。日本は今、アジアの民主主義のとりでの一つだ。

 今年は雨傘運動から10年、19年の大規模デモから5年という節目だ。多くの香港人がいろいろな形で犠牲になったが、私たちが最終的に成し遂げたかったことはまさしく、民主政治と自由という、日本の人には当たり前に思える人権だ。香港からはそれが失われてしまった。

 これを守り続けるのが、いかに大変なことか。

 日本では、18歳になれば誰もが投票でき、25歳以降は自由に立候補できるようになる。選挙権・被選挙権を自由に行使し、その先にある国のあり方を想像しながら、自分の国の未来を決める。そんな真の民主主義のありようを生かしてほしいと思う。(大学院生・香港の元区議 葉錦龍(サム・イップ)=寄稿)

葉錦龍(Yip Kam Lung Sam) 1987年、香港生まれ。民主活動家。2020~21年に香港中西区議、香港公民団体連盟「民間人権陣線」副召集人。現在は「香港公民代表会議」のアジア太平洋委員会召集人。19年9月と20年5月のデモ中にそれぞれ逮捕され、その過程で負傷した。23年4月から東京大学大学院総合文化研究科修士課程に在籍。

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    倉田徹
    (立教大学法学部教授)
    2024年7月16日15時59分 投稿
    【視点】

    日本が位置する東アジアには、民主主義国は必ずしも多くはありません。EUの事例を見ても分かるとおり、民主主義国同志の間では戦争が起きにくいという「民主的平和」という学説がありますが、それを踏まえると、近隣諸国が民主主義国であること、民主主義国になることは、日本にとっても平和を維持する上で非常に重要なことです。  葉錦龍夫妻のように、民主主義を求めて日本に来る東アジアの人々が、日本での生活を安心して送れるようにすることは、国策として追求すべき政策だろうと思います。

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