大手広告会社の電通をやめて、「絶対に嫌だった」家業を継いだ人がいる。東京都町田市の酒屋「リカーポート蔵家(くらや)」社長の浅沼芳征さん(55)だ。早期退職後の不安を乗り越え、売り上げを拡大。思わぬ形で、30年ごしの夢をかなえることにもつながった。
「風が止まったみたいだ」
2013年4月、町田駅から車で10分ほどの市道沿いにある「リカーポート蔵家」。副社長として酒屋の店頭に立つ浅沼さんは、そんな思いを抱いていた。
前の月までは、東京・汐留にそびえる電通ビルの17階が勤務場所だった。営業局で、大手の映画配給会社を担当。オフィスには他部署の担当者が、映画とのタイアップのため、まだ世に出ていないテレビ番組の企画を持ち込んでくるのが常だった。「社内にいるだけで、目の前をびゅんびゅん新しい情報が飛び交っていた」
電通をやめて家業に入ると、そんな情報の流れはぴたりと止まった。
「世間から取り残されたような、そんな喪失感、孤独感にのみ込まれそうでした」
「添い遂げるつもり」だった電通
実家の酒屋は、幼少期に父が始めた。両親は土日も働きづめで、授業参観や運動会にも全く来てくれなかった。子ども心ながら家業は好きになれず、「将来は絶対に継がない」と強く思っていた。慶応大学の体育会でアイスホッケーに打ち込んだ後、OB訪問をきっかけに志望したのが電通だった。
「当時はバブルの名残があって、電通はいけいけどんどんの時代。チャラついたイメージで、自分の肌にはあわないと思っていました。だけど体育会の先輩たちはイメージと違って、純粋に仕事が楽しそうだった。彼らにあこがれ、世の中のムーブメントを作る広告という仕事に、とても引き付けられました」
大手企業の内定に両親も驚き、家業を継ぐよう言われることもなかった。1993年、「定年まで添い遂げるつもり」で電通に入った。
町の酒屋は「淘汰される」
「体育会出身のおまえは『兵隊』だからな」。先輩に告げられ、入社直後は社内でも特にヒエラルキーが厳しいと言われるメディア担当になった。北海道の支社に勤務し、地元紙をはじめとした新聞の広告枠を企業に販売するのが主な業務。ミスをすると、上司に髪をつかまれることもざらだった。
それでも、新しい商品やサービスなど、様々な情報が飛び込んでくる仕事は刺激的で、夢中になって激務をこなした。5年間の北海道勤務を終えた後、98年に東京へ異動。引き続き新聞の広告枠を売る担当として、「現場で汗をかく」日々が続いた。
東京に戻っても、実家の酒屋に寄るのは飲み会のお酒を調達するときくらい。コンビニやスーパーなどの大手資本が台頭してくる中、「町の酒屋は早晩淘汰(とうた)される」と感じていた。自分以外の第三者で後継者となる人が見つからなければ、「自然消滅」も仕方ないと考えていた。
そんな家業への見方が変わり始めたのは2011年、42歳のときだ。
家業を見つめ直すと…
3月に東日本大震災が発生。テレビCMが軒並み自粛となるなかで、急きょ新たにCMを作り、少しずつ再開させる道筋をつけた。現場で一つ、大きな山場を越えた感触があった。
電通で「部長職」への昇進を打診されたのは、その数カ月後だった。
積み上げてきたキャリアをまっとうするか、それとも別の選択肢に一歩踏み出すか……。立ち止まって考えたことはありませんか? そんな葛藤を経て、50代で「リア充」を見つけた人たちの物語をシリーズでお届けします
会社組織の中で管理職にステ…