象徴天皇制、根源から問い直す議論を 主権者への原武史さんの訴え
日本国と国民統合の象徴とされる天皇の代替わりから、間もなく5年。皇族が減り、皇位継承問題が再び議論となるなか、近代天皇制を研究してきた政治学者の原武史さんは「象徴」の意味を問い直すよう訴えてきた。メディアでの発言も多いが、当人いわく、その内容はおおかた無難に編集されてしまうという。ならば、自粛も禁忌(タブー)もなしで論じてもらおう。
「平成流」と対照的な令和の天皇像
――この5年間、「象徴」のあり方に変化は見られますか。
「平成期とは対照的な天皇像が定着しつつあります。端的に表現するなら『動かない天皇』とでも言えばよいでしょうか」
「今回の能登半島地震で、天皇は今のところ現地入りしておらず、2月23日の誕生日会見まで目立ったメッセージも発しませんでした。もちろん訪問可能かどうか宮内庁が慎重に見極めている段階でしょうし、天皇、皇后ともに被災状況の把握に努め、見舞金を送るなどはしています」
「ただ、明仁上皇は平成の幕開け間もない1991年、雲仙普賢岳大火砕流の発生1カ月後に現地に入り、95年の阪神淡路大震災でも2週間後に余震の続く被災地に向かっています。東日本大震災では発災5日後という非常に早いタイミングでビデオメッセージを発し、大地震と津波、更に原発事故で動揺する国民を激励しました。そしてその後7週連続で被災者を見舞いました」
「一方で徳仁天皇は、コロナ禍という国難とも言える事態でも、国民に対してすぐさま強いメッセージを発することはありませんでした。2020年7月の九州などでの豪雨災害でも、ようやく半年後にリモートで現地を見舞いました。もちろん緊急事態宣言などの制約で『動けない』のが主因とはいえ、近代天皇制の歴史で天皇や皇族がこれほど長期間、国民の前に直接姿を見せなかった事態は異例です」
「地方視察が中断された第2次大戦中でさえ、昭和天皇は陸海軍の学校の卒業式に出席し、毎春秋に靖国神社も参拝、東京大空襲後は街を視察するなど、活発に動きましたから。とりわけ明仁上皇のスタイルとの違いは明らかです。『平成流』は名実ともに終わった、しかし『令和流』の姿はいまだ見えず――そう言えると思います」
――その「平成流」の象徴の…
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