第13回「何人殺しとんねん」 残された日記、桑原征平さんが父を許すまで
あれは忘れもせん。小学5年生の時でした。
正月と盆しか休みがない働き者の母に、父が「何が何でも今日は早めに帰ってこい」と言いました。夕方急いで帰ってきて母がご飯をつくると、父の「女」がやってきました。
2人が食事するのを母と私は横で見ていました。酒を飲んだ父は「おい、布団敷け」と命令します。6畳間に布団の用意ができると、母に一言。「お前、今から征平連れて2時間、風呂行ってこい。時間前に帰ってきたら、承知せえへんぞ」
2人で出かけて風呂から出ても、まだ1時間残っています。いま帰れば、父に殴られてしまいます。仕方がないから、家の近くの製材所の材木の上に母と並んで腰掛けて、寒空の下で待ちました。しばらくして、例の女の人が家から出てくるのが見えた。私は母に言いました。
「お母ちゃん、何で別れへんの。僕ら兄弟、みんなお母ちゃんについていく。あんな怖い怖いお父ちゃんと、何で一緒にいんの」
「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、それまで辛抱したげような」
父・桑原栄は1907年、広島県で生まれました。10代のころ京都に出て、警察官になりました。勤務する派出所の前に住んでいたのが、母・フミです。母は小児まひで手足が不自由でした。父が見初めて「お嬢さんを下さい」と祖母に言うと、「この子は結婚できる体じゃない」と断られました。それでも「姿形はどうでもええ、優しい人柄にほれたんです」と食い下がったそうです。
母は恩義を感じていたんでしょう。それに、当時の父は「優しい優しい人やった」とか。
38年、父は陸軍兵士として中国へ出征し、1年後に傷病兵として帰ってきました。
逃げる人追いかけ、片腕をサーベルで
私が生まれたのはその4年半…
- 【視点】
戦争は、どんなことをしてでも避けるべきである。従軍したこともなく、戦時下を知らない私が、なんの迷いもなくこう断言できるのは、こうした生の語りがあるからです。当時を知る人たちが語り継いでこられたからです。 戦争を肌身で知る人たちがやがて
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