第4回坂本龍一と忌野清志郎の時代 金平茂紀さん憂える「自由からの逃走」
悼むとは、その人のやってきたことを引き継ぐこと――。ジャーナリストの金平茂紀さん(70)はこう語る。「この国は、なぜこんなにモノが言えなくなったのか」。忌野清志郎さんが亡くなった年、生前の坂本龍一さんと熱く語り合ったことが強く記憶に残る。「坂本さん亡き今だからこそ、誰かが言わなければ」と、逡巡(しゅんじゅん)しながら、その思いを伝えてもらった。
――忌野清志郎さんが亡くなった2009年の年末、TBSラジオで坂本龍一さんと対談しました。
僕からお声がけして、アドリブ、ノーギャラでね。僕は音楽が大好きで、清志郎さんの曲も坂本さんの曲もずっと聴いていて。坂本さんがニュース番組「NEWS23」に曲を作ってくれるなど親交がありました。
実は3人とも「都立高校世代」です。私はおやじの転勤で、高校2年生の時に北海道から都立西に転校した。カルチャーショックでした。坂本さんは都立新宿で、清志郎さんは都立日野。自由にモノを言い、素直に世の中のことと向き合う都立高文化がありました。
1982年の「い・け・な・い ルージュマジック」で坂本さんと清志郎さんが共演した時、坂本さんは「戦メリ」(戦場のメリークリスマス)も手がけていた。僕は社会部記者でロッキード裁判を取材していました。
そんなことを振り返りつつ、清志郎さんの音楽の魅力について坂本さんは「日本では稀有(けう)なパフォーマー。フォーク、歌謡曲、ニューミュージック、ロックなどをすべて吸収している。聴いている人の心に届くんですよ。例えば『赤とんぼ』みたいに体に深く入っている詩とメロディーで力があった」と評していた。
「言いたいことが言えない国」 清志郎が言ってきたこと
坂本さんが一番力を込めて話した言葉が今も強く残っています。
「清志郎がずっと言ってきた…