オスプレイ飛行停止、旧日本軍は機体の不具合とどう向き合ったのか

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聞き手・牧野愛博

 鹿児島県屋久島沖で昨年11月末に米空軍のCV22オスプレイが墜落した事故を受け、米国防総省は12月、全世界でのオスプレイの飛行停止を発表しました。80年前にやはり、航空機の不具合に悩まされた旧日本軍はどう対応していたのでしょうか。防衛研究所戦史研究センターの小椿整治2等空佐に聞きました。

 ――旧日本軍が航空機の不具合に苦しんだ様子が、戦史でよく出てきます。

 当時は航空機の技術が日進月歩で発達した時代でした。ライト兄弟の初飛行が1903年で、14年から始まった第1次世界大戦で航空機が兵器として初めて登場します。第2次大戦勃発時には時速500キロ台にまで速度が上がり、大戦末期にはジェット機も登場しました。

 このため、毎年のように新しい機種が誕生しました。陸軍の戦闘機だけでも、一式戦闘機「隼」(制式制定41年)、二式戦闘機「鍾馗」(同42年)、三式戦闘機「飛燕」(同43年)、四式戦闘機「疾風」(同44年)など、次々に登場しました。戦争なので、軍からは「敵に勝つ航空機を」という要求もあったと思います。

■1944年当時、「生産機の…

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この記事を書いた人
牧野愛博
専門記者|外交担当
専門・関心分野
外交、安全保障、朝鮮半島
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    辻田真佐憲
    (評論家・近現代史研究者)
    2024年1月28日12時7分 投稿
    【解説】

    大ヒット中の映画『ゴジラ-1.0』で、大戦末期に開発された海軍の局地戦闘機「震電」が急遽整備されて活躍するというシーンがあります。フィクションの話ではありますが、そんなかんたんに飛ばせるようになるのかと思わず突っ込んでしまいました。かつてで

    …続きを読む