お城の堀に水がない 160億円かけ江戸時代を「復元」したのに
【栃木】「釣天井伝説」で知られる宇都宮城の堀に、ほとんど水がない。宇都宮市が約160億円かけ城址(じょうし)公園として整備し、江戸時代と同じような水堀を再現したはずだった。だが、約5年前から水位が下がり、ためたくてもためられなくなったという。なぜなのか。
公園の堀は幅11~26メートル、面積3900平方メートル。土塀や2棟の櫓(やぐら)が建てられた高さ約10メートル、総延長約230メートルの土塁に沿って掘られている。堀にかかる「おほり橋」南側には、わずかに水がたまっている。しかし、全体の7割ほどを占める北側はコンクリートの底が見え「空堀」になっている。
宇都宮城は平安後期に築かれた、とされる。堀は江戸時代に本丸や二の丸などの周りにめぐらされ、水をたたえていた。明治維新の戊辰戦争で建物の大半が焼失した後、土塁は壊され、堀も時代とともに埋め立てられていった。1970年代前半までには昔日の姿は消えたという。
市は2000年度、市制110周年事業として、本丸西側にあたる約3・7ヘクタールで「復元」を計画。土塁や堀などを造り、07年3月に開園した。用地買収や建設費などに総額161億5千万円かかった。
市公園管理課によると、ポンプで地下水をくみ上げ、開園してしばらくは深さ1~2メートルの「満水」状態だった。だが、5年ほど前から水位が減っていった。担当者は「地下水の水質に問題があった」と言う。
説明では、地下水には相当多くの鉄分が含まれ、パイプやポンプ本体がさび付きやすい。性能が鈍ったため、清掃や部品の交換で対応したが、それ以上に鉄分の付着が激しく、間に合わなくなった。
担当者は「地下水の鉄分は想定外でした。今は雨水に頼るしかありません」。北から南に向かって傾斜があり、雨が降れば南側はしばらく水がたまるといい、10月末の水深は80センチほどという説明だった。公園を訪れる人から「なぜ、堀に水がないのか」と尋ねられることもあるという。
市内には開園前年に発足した市民団体「宇都宮城跡蓮池再生検討委員会」がある。江戸時代の宇都宮城の絵図に「蓮池」とあることが計画・整備段階で分かり、蓮池の再現を市に提言・要望したが、聞き入れられなかったという。
同会によると、宇都宮城の堀は1900(明治33)年に開墾申請が出され、翌年から埋め立てられた。敗戦後も都市開発が進み、市はゴミなどによる埋め立てを進めた。堀を史跡として残そうという発想がなく、文化財として後世に伝えるという議論も弱かった、と郷土史家が指摘する記録も残っている。
同会の印南洋造事務局長は「110周年に間に合わせることを優先し、完成後の管理の検討が少なかったのではないか。絵図を踏まえて堀を復元しようとしたのは評価するが、施設の多くをコンクリート造りとする安易な姿勢が、水面のない堀にしてしまったのなら残念」と指摘する。
蓮池の再生は、今の堀では難しい状況になっているが、同会は城址周辺での再生も視野に活動を続けている。印南さんは「雨水をためて流入させるなどの方法もある」と今後の工夫と対応に期待している。
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〈宇都宮城〉 江戸初期の1619年、城主になった本多正純が計画的に城と城下町を整備し、南北900メートル、東西850メートルの本格的な城郭になった。江戸後期には関東七名城の一つとして紹介された。戊辰戦争では、宇都宮藩が新政府側につき、土方歳三ら旧幕府軍の攻撃で落城、炎上したが、新政府軍が奪還した。
有名な「釣天井伝説」は、本多正純が日光東照宮参拝から帰る3代将軍家光を、吊(つ)り天井を落として暗殺することを企てた、という作り話。正純の突然の改易から生まれ、講談や芝居の題材になった。
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