拘束よりも罰金よりも、気の力 コロナ禍で「気」は制度と化した
連載「コロナ禍と出会い直す 磯野真穂の人類学ノート」(第20回)
前回まで
コロナ禍で多用された「気の緩み」。「気」は様々な視点から語ることが可能だが、人類史において気のような力はさして珍しい存在ではない。
「気」を真面目に語ろうとすると「スピリチュアル」という言葉がすぐに登場する。現代日本において「スピリチュアル」は、怪しい信仰を持つ人たちといった、失笑や蔑視を伴うカテゴリーとして使われやすい。
しかし「気」のような力が社会に存在することは人類史においてままあること、「気」のつく言葉を当たり前に使って私たちが暮らしていることを踏まえると、「気」をスピリチュアルといって馬鹿にするのは、思考停止以外の何者でもない。
翻って人類学の強みは、思考の停止を解きほぐし、再び稼働させるための枠組みを提供してくれることだ。
そこで私が紹介したいのは、20世紀中盤にイギリスを中心に展開された人類学の議論である。中でも紹介したいのは、議会といった明確な政治組織のない共同体での政治のあり方を、アフリカ社会を中心に分析したメアリ・ダグラスだ。彼女の代表的作品の一つである『汚穢(けがれ)と禁忌』は、コロナ禍の「気の緩み」を考察する際に有用な視座をいくつも提供してくれる。
マナ、ナウ、呪術、祈禱…誤った理解導かぬ視座
一つ目。それは、「マナ」や「ナウ」、「気」のような力(前回参照)に私たちが出会った際、そればかりに注力をして分析をすると、甚だしく誤った理解が導き出されると彼女が指摘している点だ。
例えば、気について何も知ら…
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