「絶対にいけない」で止まっていないか 暴力を冷静に議論する技法を

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聞き手・田島知樹

安倍元首相銃撃事件から1年 河野有理・法政大教授に聞く

 暴力は絶対に許されない――。それは、安倍晋三元首相が殺害された後、何度も繰り返されてきた言葉だった。だが、なぜ許されないのか、現実として生じる暴力はどのように抑えるのか。この1年間、暴力について突き詰めて考える議論がなかなか深まることはなかった。政治思想史が専門の河野有理・法政大学教授は、暴力を語ること自体忌避していることは危ういと考える。

 ――安倍元首相が暴力によって倒れて1年になります。

 安倍元首相が亡くなってから「暴力は絶対いけない」と繰り返されてきましたが、暴力について向き合い、考えることはできてこなかったと言わざるを得ないでしょう。

 私は暴力の根絶は不可能で、大事なことはいかに暴力をコントロールするかということだと思っています。つまり、暴力自体は常に社会に遍在していて、いかに暴力を社会にとって許容可能な水準にコントロールできるか。本来そのことが議論されなければいけないのです。

 ――暴力が必要になる時もあるということでしょうか。

 ロシアに侵略されているウクライナを見れば、分かるでしょう。

悪政を行う暴君だったら

 ――確かに、ヒトラーやスターリンに対して、もしくはクーデターを起こしたミャンマーの軍政に対してなどは、力で抵抗することもやむを得ないのかもしれません。

 悪政を行う暴君、統治権力に対して、我々は暴力で抵抗することができるし、それは正当化される場合があるのです。

 ただ、あらかじめ申し上げると私は安倍元首相が暴君だったとは決して思わないし、日本は民主主義体制であり選挙を通して政権交代が可能な国です。だから山上徹也被告の暴力は間違いだったと思うし、心情的な共感も全く抱きません。

 ――山上被告を英雄視する人もいます。

 どのような思想を持つかは人それぞれの自由ですが、この暴力が正当なものであったこと、安倍元首相は暴君であって、暴力で取り除く以外に手段はなかったというような論理を説明するいわば「計算式」は述べられず、正当化可能な暴力行使の条件について議論が深まることもありませんでした。

 公的には暴力は絶対にいけないと言っておいて、プライベートな場では山上被告に同情を表明するというようなねじれも起こりがちだったように思いますが、あえていえばそれは非常に不健康な状態だと思います。

語ることを忌避する雰囲気

 ――暴力について議論することは忌避されがちなのでしょうか。

 穏やかでない事柄を語ること自体を物騒なこととして忌避することは、この日本社会では昔からあったのではないでしょうか。

 その昔、福沢諭吉は「competition」を「競争」と訳そうとして、幕府の上役から「争」という字が穏やかではないと止められたという体験を自伝「福翁自伝」に書いています。

 もちろん、こうした態度が日本に特殊なことというわけではないでしょう。人間誰しも死とか暴力は見たくないはずです。そんな物騒なことをわざわざ聞かせないでよというのは、人間の情としては自然なことだと思います。

 しかし、物騒なことについて語ることは、そのことを肯定し、容認することとは違うはずです。それどころか、そうした物騒なものについてこそ、オープンに語ることが必要な場合もある。暴力のような根絶不可能で、そのコストやリスクを冷静に計算しなくてはいけないものについては特にその必要は大きいはずです。

 にもかかわらず、それを語ることをそもそも忌避する雰囲気がないでしょうか。悪いことについて語ることが、そうした悪いことを容認し、助長する社会の雰囲気を形成してしまうといった懸念が強すぎるような気がします。

不穏なものを忌避する傾向はウクライナでの戦争をめぐる言説にも見られるといいます。記事後半では、安倍元首相の襲撃事件を歴史的に位置づけます。

 暴力だけでなく例えば、戦争…

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