第1回黒こげの弟に「ごめんね」、母も失い孤児に 無残な死体に失った感情

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中野晃

 韓国・ソウルを流れる漢江(ハンガン)の南岸で、日本人の少年(14)は、ワラ製の袋にくるまって横になっていた。市場を転々とする路上生活を始めて1年近く。世話になった韓国人宅を飛び出して間もない頃だった。

 夜の静寂を破って突然、「ドカーン」「ドカーン」という爆発音が響き、跳び起きた。

 「また戦争が起きたのか」。少年は思った。

 73年前の1950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下し、4日目にはソウルに入る。少年が耳にしたのは、漢江を挟んでにらみ合う韓国軍と北朝鮮軍の攻防戦だった。

 今年7月27日、朝鮮戦争(50~53年)の休戦協定が成立してから70年を迎える。

 少年は87歳になった。大阪府門真市の友田典弘(つねひろ)さん。9歳の時に広島で原爆に遭い、孤児に。渡った韓国でも戦争に巻き込まれた。2度の戦禍を生き抜いた波乱に満ちた半生をたどる。

        ◇

 35年、広島市で生まれた。父親は呉で海軍関係の仕事をしていたと聞いたが、国民学校2年の時に病死したため、あまり記憶がない。

 太平洋戦争の戦況は悪化し、広島でも防火地帯を作るために家屋などを取り壊す「建物疎開」が進められた。市中心部の自宅も対象になり、近くの2階建ての家に移り住んだ。

 母は洋服の仕立てをし、母が作った服で2歳下の弟と学校に通った。家のそばを流れる元安川でボートに乗り、母からこぎ方を教わった思い出がある。

 45年。国民学校4年になると、広島県の山間部のお寺に集団疎開した。本堂での雑魚寝。食事に出てきたイナゴを口にすることができず、先生に体調が悪いと訴えて数日で母親に迎えに来てもらった。

 広島に戻って間もない8月6日朝。「行ってきます」と家を出る時、母が「気をつけて行っておいで」と声をかけてくれた。

 快晴の青空。袋町国民学校(現・広島市立袋町小)の校門に入ろうとした時、「ブルーン」と飛行機のプロペラ音が聞こえた。空を見上げたが、まぶしくて見えなかった。

 コンクリート造りの校舎に入…

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