国道・防潮堤・宅地…みんなで考え奔走した新「吉里吉里国」に学会賞

東野真和
[PR]

 井上ひさしの小説「吉里吉里人」で名が知られる岩手県大槌町吉里吉里地区が、東日本大震災からの復興まちづくりで今年度の土木学会デザイン賞の優秀賞に輝いた。道路、防潮堤、集落などの再生にあたり、住民が望む町を実現しようと、さまざまな関係者が一致団結、尽力したことが評価された。

 吉里吉里地区は、現在人口約1700人。震災で高台まで津波が押し寄せ、約100人が犠牲になり、約400戸が全壊した。

 復興事業は2011年6月から設計が始まり、21年春に完了した。総事業費は約147億円。この地域の再生については、小説の吉里吉里人に出てくる架空の国・吉里吉里国と重ね合わせて、新「吉里吉里国」づくりと呼ぶ人もいる。

 震災前は海沿いを走る国道のカーブが急だったが、さらに海側に道路を延ばすことで、緩やかな線形に変更した。国道に盛り土をして、国道の擁壁と、港から延びる標高12・8メートルの防潮堤を一体化させることで、海が見える景観を保った。

 国道から山側は区画整理を実施した。地区の南端にあった公民館を中央に移して、地域の拠点にした。海岸付近で家を流された住民は、点在する山手の空き地に「差し込み型」で数戸単位で移転してもらい、コンパクトな町に再生した。

 土木学会の審査員からは「あたかも以前からあったように風景に溶けこんでいる」と評価された。

 理想的な再生が実現できたのは、復興支援で他市町村から県や町に派遣された職員たちの力が大きい。

 原形復旧が基本とされていた国道の線形を変えて盛り土をするためには、北海道音更町から町に派遣された山本智久さん(57)=現音更町教委・教育部長=が奔走した。国道事務所に通って計画を説明し、1年ほどかけて認められた。「住民のために早く事業を進めなければと必死だった」

 国道が海側にせり出す形になり、防潮堤もさらに海側へとなると、地名の語源とも呼ばれる「きりきり」と鳴る砂浜がなくなってしまう課題も浮上。その際は、鹿児島県奄美市職員を辞めて岩手県職員になった西元昭一郎さん(67)らが走り回った。

 道路は国土交通省、防潮堤は水産庁や県、と所管が違う。国道の擁壁と防潮堤を一体化させる考えには、県は「災害復旧で景観への配慮は難しい」と別々に造る方針だったが、応援職員たちが調整に努力して計画を通し、砂浜を守った。

 「担当者が全員応援職員だったので、しがらみなくやれた」。西元さんは途中故郷に残した妻を事故で亡くしながら仕事を続けた。

 「住民が一枚岩になって計画を後押ししたことがまちづくりを成功させた」とも関係者は口をそろえる。

 地域復興まちづくり協議会の藤本俊明会長(73)らが、町や設計担当のコンサルタントと協議を重ねて構想を練り上げた。住民代表として、計画に対する住民意見のとりまとめ・調整を担った。「海が見え、砂浜へつい散歩したくなるような町に」との思いだった。海岸から公民館付近を通って高台への避難道に続く道「海の軸」も整えられた。

 協議会は、元の場所に残りたいという住民とも話し合いを重ねた。売ってくれそうな高台にある空き地を探し、その地権者を役場に教えて交渉しやすくした。

 藤本さんは「昭和三陸津波後に復興した時も、吉里吉里の町は理想郷と言われた。その自治力と団結力は生きていた」と指摘する。

 地区コーディネーターとして計画を統括した二井昭佳・国士舘大教授(47)は「100人を超える人たちが、住民の声を聞いてつくりあげた町。評価を受けたことを、住民に一番喜んでほしい」と語る。

 当時の町幹部は「住民意見に沿った計画を立て、つくる。当たり前のように見えて、民意の集約や縦割りの官庁の調整は難しい。今後の災害復興では吉里吉里のような例がもっと増えてほしい」と話している。東野真和

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら