沿線住民が廃線阻止 今も続く草の根支援

中村尚徳
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 【栃木】わたらせ渓谷鉄道は歴史の生き証人でもある。100年以上前から栃木県日光市足尾町と群馬県桐生市を結び、足尾銅山の盛衰とともにあった。2月で閉山50年。国内最大の産出量を誇った栄華は遠のいたが、効率重視の時代に抗(あらが)うように沿線の命脈をつないでいる。

 先月13日、桐生駅から銅山跡に向かった。

 ディーゼルエンジンの小刻みな振動が座席から伝わってくる。群馬県みどり市の沢入(そうり)駅を過ぎ、旧足尾町にさしかかった。この約5キロ区間の景観が最も美しい、と車内放送が流れた。

 わたらせ渓谷鉄道の名の通り、渡良瀬川の渓谷に沿って勾配を上っていく。木々が葉を落とし凍える渓谷に白御影石が見える。

 大自然のなかを走る経路は前身の旧足尾線誕生の歴史と関係がある。品川知一社長(63)が説明する。「鉱山から銅を運び下ろす鉄路を敷くには、険しい山々にトンネルを掘り、最短の経路を取るのが効率的ですが、当時は金も技術も不足し、川沿いを選ぶしかなかったんです」

 幕府直轄だった銅山は明治時代に入り、古河市兵衛が経営に乗り出した。1881(明治14)年から鉱脈発見が相次いで産出量が急増し、84年には日本一になった。1日10キロずつの距離を運ぶ牛馬頼みでは追いつかず、鉄道建設が検討され始めた。

 96年に日光から今市を通り矢板までの両野線計画が持ち上がった。しかし、日光・細尾峠(標高約1190メートル)が立ちはだかった。

 それでも古河市兵衛は諦めなかった。98年に足尾鉄道の設立を国に願い出た。いったん仮免許を受けながらも経済不振で本免許に至らなかったが、4年後、桐生―足尾の鉄道建設を申請。1912(大正元)年に開業にこぎつけた。

 足尾線は上りが銅を運び、下りで生活物資を輸送した。同時に労働者や沿線住民の足になった。旧足尾町の人口は16年に最多の3万8428人まで増え、宇都宮に次ぎ県内第2位になった。産銅量も約1万5700トンの最高記録を達成した。足尾線は18年に鉄道院が買収し、国有化された。

 県境をまたぎ最初の駅、日光市足尾町の原向(はらむこう)駅で途中下車した。全線44・1キロ、17駅のうち12ある無人駅の一つ。駅周辺に民家二十数軒が肩を寄せ合う。夏場は庚申(こうしん)山などへの登山客らが利用するが、冬場はほとんど人影は見えない。

 高草木テル子さん(77)は53年前から駅のそばで暮らしている。結婚後、同じ沿線の小中駅(みどり市)近くから移ってきた。

 「昔はね、通勤・通学の時間帯は満員だったのよ」

 73(昭和48)年の閉山後、国鉄足尾線は廃線の対象になった。沿線自治体や住民は存続のため、特別乗車運動を展開した。廃線除外基準の一つ「ラッシュ時ラッシュ区間乗客千人以上」を達成するため、公費で住民が動員された。

 千人乗車運動は84年9月から87年1月まで続き、高草木さんも参加した。「駅周辺の人たちと一緒に何回か乗りました。町役場に頼まれたからだけど、協力したいという思いが強かったですね。買い物や通院、生活に欠かせない鉄道でしたから」

 閉山後も足尾の製錬所は海外の鉱石を使って操業を続けた。しかし、貨物輸送は鉄道からトラックに切り替わった。87年4月、国鉄の分割民営化で足尾線の営業はJR東日本に移行した。

 ほどなく第三セクターが運営を引き継ぐことが決まった。89(平成元)年に沿線自治体などが出資し、「わたらせ渓谷鉄道」を走らせ始めた。その年、製錬所の操業が止まった。

 足尾に向かう途中、車内に貼られている紙に気がついた。2年前、トロッコ列車の検査費や運営費の一部をクラウドファンディングで募り、その支援に感謝する内容だった。

 品川社長によると、全国の466人から1千万円近くが集まった。《昔、高校通学で使った》《今は乗ってないけど、なくなったら困る》。支援を寄せた半分以上は、かつて沿線で暮らした人たちだった。

 品川社長は驚いたという。「支援は地元住民や鉄道ファンだけだろうと予想していた。身をもって必要性を知っているからこそ、沿線を離れても運行の継続を願ってもらえるのでしょう。多くの人たちの思いを知ることができました」

 沿線の高校では年1回、全校生徒が体験乗車して地域探索をする日を設けている。市民団体は、障害者の就労支援施設でつくられたクッキーの売り上げの一部を、枕木の代金にあてる活動に取り組む。全駅が毎年12~2月、地元住民らの手で電飾で彩られる。わたらせ渓谷鉄道を盛り上げようという熱い思いが背景にある。

 高草木さんは2009年3月、無償の「ふるさと駅長」になった。以前からホームや駅周辺の雪かきや花壇の手入れなどをしており、当時の社長から就任を頼まれた。花壇はシカやサルの被害でやめているが、駅舎掃除や雪かきを続けている。今冬も地域の人たちと駅を電球で飾った。

 「足尾じゃ、ますます高齢化が進んでいるからね。年を取れば車の運転もできなくなる。自分たちが残さないと」。千人乗車運動のころと思いは変わらない。

 終着の間藤駅に着いた。無人駅で人影はなかったが、往時の栄華を今に伝える巨大な製錬所が残っていた。

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