いびつな社会を背負った女性たち 沖縄そばを育て、日米をも動かした
市場のおばぁ、祭祀(さいし)をつかさどるノロや、各界で活躍するアーティスト。沖縄の女性の存在は明るくたくましく、ときに歌や踊りの担い手として脚光を浴びる。しかし、地上戦の荒廃からの復興や基地経済など、戦後史の中心にいたのも女性たちだ。置き去りにされた視点から、復帰50年を見つめ直す。
沖縄の女性たちが初めて選挙権を行使したのは米軍占領下、日本本土より7カ月早い1945年9月だった。各地にあった12の収容所で、戦後初の議会選挙が行われたときだ。米国統治による民主主義の実践ともいわれるが、米軍幹部はこう回想する。
「女性の権利とは何の関係もないことだった。つまり、異常な人口構成のためだった」(「沖縄戦後初期占領資料」 ワトキンス文書刊行会編)
働き盛りといわれる20~50代は男性3、女性7――。沖縄の戦後はいびつな人口比から始まった。太平洋戦争末期の地上戦で県民の4人に1人が犠牲になったといわれるが、この世代の男性は半数以上が亡くなった。
「前に出ざるを得なかった」
残された女性たちが戦後復興の担い手となる。
47年、那覇の路上には米軍の落下傘の生地で仕立てた衣類や、軍用機の残骸をやかんなどに再利用した生活雑貨を売る女性たちが集い、市場が生まれた。物資が乏しいなかで生まれた日本や台湾との「密貿易」にも、女性の存在があった。
安室奈美恵さんやSPEEDら多くのタレントが活躍し、女性が元気だと言われる沖縄。しかし歴史をたどると、戦後沖縄が背負った特有の事情がありました。基地問題をめぐるうねりをも生んだ、沖縄の女性の歩みを追いました。
その一人で、のちに商事会社…