25年前の1997年11月17日。「たくぎん」の愛称で親しまれた北海道拓殖銀行が巨額の不良債権を抱えて経営破綻(はたん)した。戦後初めて起きた都市銀行の破綻は衝撃を与え、同じ月の24日には山一証券が自主廃業。金融不安が加速し、銀行への公的資金注入や金融再編が進んだ。道内でも当時4行あった銀行は半減。残った2行が、拓銀から営業譲渡を受けた北洋銀行と、一時拓銀との合併を交渉した北海道銀行だ。拓銀破綻の実相は何か。両行関係者の証言から改めて探った。(日浦統)

圧倒的シェア、バブルで大きな傷

 「拓銀の破綻で、道内経済は混乱をきたした。金融機関は地域の重要なインフラのひとつ。北洋銀行が北海道の営業を譲り受けたことは経済の安定に貢献できたと考えている。その後、北海道銀行と2行で経済を支えるべく努力してきたと自負している」。北洋銀の安田光春頭取(63)は今月11日、2022年9月中間決算会見で、拓銀破綻を振り返った。

 破綻前、道内の銀行は拓銀、道銀、北洋銀、札幌銀行の4行体制だった。総資産は拓銀が9兆5千億円、道銀は3兆4千億円、北洋銀は1兆8千億円、札幌は8千億円。拓銀のシェアは圧倒的だったが、積極的な不動産融資により、バブル崩壊で負った傷も大きかった。生き残りに向けた動きは、破綻の8カ月前、97年3月に始まっていた。

 検討されたのは道銀との合併。98年春の合併を目指したが、交渉は難航した。当時、道銀の経営企画室長として交渉の最前線にいた堰八(せきはち)義博・元道銀頭取(67)は「不良債権に対する認識の違いが大きかった」という。「両行が体力に比して大きい不良債権を抱えており、不良債権の処理見込み額も確定しないなかで、合併ありきで先に進むことはできなかった」

 店舗の統廃合を巡る見解の相違もあった。「北海道に特化するなら拓銀の首都圏の支店は必要最小限にすべきだと思ったが、拓銀側は首都圏の店舗の維持にこだわった」。「拓銀で東京を中心にキャリアを積んだ人にとって東京は大事だった。『関東軍』と言われており、当時も東京と札幌で本部が二つあったような感じだった」という。

マーケットから「退場宣言」

 交渉は行き詰まり、拓銀は不良…

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