映画評論家・故佐藤忠男さん、追悼の催し、知人らが回想

浜田奈美

 【神奈川】3月に91歳で亡くなった映画評論家の佐藤忠男さんは、日本映画大学(川崎市麻生区)を足場に、映画人の教育や芸術を通じた地域振興に尽力し、日本でのアジア映画の普及にも力を注いだ。5月に川崎アートセンター(同)で開かれた追悼イベントでは、知人たちが思い出を語り合い、日本を代表する評論家の深い映画愛と実直さを改めて印象づけた。

 佐藤さんは、今村昌平監督が1975年に設立した「横浜放送映画専門学院」(現日本映画大学)に初期から参加し、96年から2017年まで校長・学長として学生を育てた。三池崇史監督や李相日監督ら多くの才能が輩出し、横浜や川崎から映画界の一線へと巣立っていった。

 同校や文化施設が集まる新百合ケ丘駅周辺で続く「川崎・しんゆり芸術祭」の実行委員長も長く務めた。「芸術の街」を目指す地元に寄り添い、文化振興に力を入れる市側と情報交換を続け、作品の誘致や広報に積極的に関わった。

 そうした縁もあり、5月初旬に開かれた芸術祭で「佐藤忠男さんを偲(しの)んで」が企画された。同校出身監督らの作品上映のほか、同僚や教え子によるトークイベントで構成された。

 現学長の天願(てんがん)大介監督と、教授を務める細野辰興監督は、映画に情熱を傾けた姿を振り返った。天願さんは、俳優の長谷川一夫について質問した際の逸話を披露。「話が止まらず、5時間も話し続けました」

 細野さんは授業での姿に驚いたという。佐藤さんはローアングルの撮影技法で知られる小津安二郎監督作品の魅力を伝えようと、「カメラワークを再現するため、床に伏せて解説していた」と回想した。

 評論家としての佐藤さんは、妻・久子さんと世界を飛び回り、未知の作品との出会いを求めた。特に発掘と応援に心血を注いだのがアジア映画だった。

 「アジアの映画は、命がけで見なくてはいけない」。そんな佐藤さんの言葉を回想したのは、同大映画学部長で国際映画祭のディレクターも務める石坂健治さんだ。

 石坂さんは1996年~97年に都内のミニシアターなどで韓国映画を一挙に上映した「韓国映画祭」に向け、夫妻の作品探しのソウル旅に同行した。夫妻は朝から深夜まで正座して作品を見続けていた。ある日、石坂さんが夕食時に外出し、ほろよいで戻ると、2人は映画を見続けていた。

 「奥さまが厳しくて。後で佐藤さんからも叱られました」。そのとき告げられたのが「命がけ」の覚悟だった。佐藤さんは戦時中、飛行兵に志願した軍国少年だったが、戦後は、戦争の歴史を常にふまえた戦中派の視点を持ち続けた。

 訪中時の通訳を務めた映画史研究家の晏妮(アンニ)さんもまた、歴史のひずみにたたずむ佐藤さんの目撃者だ。

 佐藤さんの著作の中でも「キネマと砲声」は歴史に切り込んだ話題作だが、85年の訪中時、現地の映画批評家たちから「出版をやめろ」と抗議を受けたという。日本占領下における日中映画人の交流と作品群を解説し、中国側が「空白」にしていた映画史を掘り起こした著書だった。

 現地の声を晏さんが訳して伝えると、佐藤さんは表情を硬くした。「結局、何も語りませんでした」と晏さん。佐藤さんはのちに文庫版の後書きで「日本の占領下に生きた中国映画人の苦難と苦悩の責任はすべて日本側にある」と記した。沈黙の理由がここにある。

 映画人の育成とともに、アジア映画の紹介に尽力した背景に戦中派の贖罪(しょくざい)意識もあったのだろう。佐藤さんは、映画が異国の人々の相互理解を促し、架け橋になることを切望していた。

 石坂さんはイベントで、国際交流の場で故人が繰り返した言葉を紹介した。

 「政治なんて、いつだって状況は悪いものです。文化の方は、大いに頑張りましょう。乾杯!」…

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