彦根藩主になった直弼、「開国、状況により鎖国に」主張

彦根城博物館副館長 渡辺恒一
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 【滋賀】1846(弘化3)年の正月、彦根藩主井伊直亮(いいなおあき)の世嗣(せいし、世継ぎ)直元(なおもと)が逝去したことが公表された。直亮と直元はともに直弼(なおすけ)の兄である。

 翌2月、江戸に呼ばれた直弼は、彦根藩の世嗣の地位についた。

 この時、32歳。江戸城での将軍への初御目見(おめみえ)のため、外桜田の彦根藩上屋敷の門から出発した時の様子を伝える直弼の手紙が、彦根藩井伊家文書に伝わる。

 〈本供(ほんとも)にて門出(かどで)候節(せつ)は、(中略)誠に不思議に存じ候程(ほど)の事(こと)、実に以(もっ)て御高恩身に余り、(中略)落涙(らくるい)に及び候〉

 一転した自らの境遇を不思議に思いつつ、駕籠(かご)の中で感極まる直弼であった。

 直弼の世嗣・藩主時代は、外国船が江戸近海にも現れ、幕府が開国していく時期と重なる。政治の世界に踏み込んだ直弼が自らの根本に置き、原動力とした考えは、どのようなものであったか。

 翌年2月、江戸湾の海防の強化を意図した幕府から、川越藩・会津藩などとともに海岸警衛を命じられた。

 彦根藩の持ち場は相模(さがみ)国(現在の神奈川県)であった。海岸警衛を務めるなか、直弼は、井伊家が武門の家であることを強く意識し、その誇りと責任感をしばしば表明している。

 実は、彦根藩はこの役割自体に強く不満を持っていた。京都の守護こそが本来の役割で、相模国は井伊家の家格に不相応なものとした。そのせいか、警衛に当たる藩士らの士気も上がらず、彦根藩の武備は他藩より手薄であった。

 直弼は、この状況に強い危機感を抱いた。ある手紙では、井伊家は「武事(ぶじ)においては天下随一の御家」であるとし、警衛に関して幕府から沙汰があれば、井伊家の傷となり、初代井伊直政・2代直孝の武功を汚すと危惧した。

 直弼によれば、この事態を招いたのは、藩主の直亮であり、当時の私信で痛烈な直亮批判を度々行っている。幕府を支える武門の家であらねばならぬという直弼の強い意志が、彼を突き動かしている。

 正室の子として生まれ、12歳で世嗣となった兄直亮に比べ、藩主候補圏外から世嗣となった直弼は、異端であるがゆえに、正統であらねばという思いが強かったように思われる。

 1850(嘉永3)年、直弼は藩主となった。ただちに警衛の強化を図る。務めをしっかり行い、成果を出した上で、京都守護への配置換えを願うという狙いであった。何事にも正面から筋を通す直弼らしい姿勢が表れている。

 3年後の6月、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸湾に来航した。

 この時、幕府からの諮問に対し、直弼は、「別段存(ぞんじ)寄書(よりがき)」と題する意見書を書いた。そのなかで、国内に立てこもっているだけでは活路はなく、積極的に海外に出て交易をし、西洋の砲術と航海術を取り入れ、武備の充実により外国と対等に交渉できる力を身につけ、必要であれば鎖国に戻す――と主張した。

 開国し、状況により鎖国に戻すという考えは、今の我々からすれば、実現性の低い、その場しのぎのようにも見える。

 しかし、そうであろうか。外国との武力の差は歴然としているなか、武力による幕府の全国支配を維持しなければならない。直弼の意見は、この難題への対応である。

 強さとしなやかさの両立。若き日の直弼が柳の木にみた理想に通じる。

 翌年3月、日米和親条約が締結された。直弼は、次の大きな政治の表舞台へと進んでいくこととなる。(彦根城博物館副館長 渡辺恒一)

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