娑婆(しゃば)に出るときにはこの腕時計を身につけて欲しい――。元裁判官は、そんな遺言を残した。託されたのは、1972年に起きた「あさま山荘事件」を含む連合赤軍事件で逮捕・起訴され、無期懲役が確定した連合赤軍元幹部の吉野雅邦受刑者(73)だ。事件から間もなく50年。吉野受刑者は、いまも獄中にいる。
使い込まれた黒い革バンドの腕時計。もとの持ち主は、元裁判官の故・石丸俊彦さん。吉野受刑者の裁判で裁判長を務め、2人は東京地裁の法廷で、出会った。
吉野受刑者は東京出身。旧財閥系企業に勤める父を持つ。入学した横浜国大で共産主義革命思想に関心を抱き、反戦集会やデモに出るように。一方で、合唱団のサークル活動にも熱心に参加した。当時としてはごく普通の大学生だった。
しかし、ベトナム戦争下に学生運動が全国に広がる中、「当時の社会体制がベトナム民衆や国内の底辺労働者の犠牲の上に成り立つ罪悪的なもので、それに従順に生きることは彼らへの抑圧に加担することになる」と思い込み、武力による革命運動に身を投じた。革命左派のメンバーとなり、その後赤軍派と合体して連合赤軍が結成されたときは、序列としては末席だったものの中央委員7人のひとりに入った。
吉野受刑者は連合赤軍による山岳ベースでのリンチ殺人やあさま山荘に立てこもっての銃撃戦などで、自分の恋人も含む計17人の死に関与したとして、殺人、殺人未遂、死体遺棄、強盗傷人、住居侵入、監禁などの罪に問われた。
一審判決は79年3月29日。石丸さんは12人が死亡した山岳ベース事件について、絶対的な権威と権力と地位を確保した森恒夫元被告(73年に拘置所で自殺)と永田洋子元死刑囚(2011年に獄中死)に従属させられた「『革命』とは無関係な、両名による狂気狂言の『同志』粛清の殺人事件」と指摘した。吉野受刑者の犯行の重大さは指摘しつつも、組織内での地位や力関係などを考慮し、検察側の死刑求刑を退けて無期懲役とした。判決文は700ページに及んだ。
裁判長からの説諭「生き続け、その全存在をかけて…」
「裁判所は、法の名において…
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