原敬暗殺100年 慶応大・清水教授と歩く現場⑥ エピローグ編
慶応義塾大学教授・清水唯一朗さん(46)にとって、特別な朝がきた。
2021年11月4日、木曜日。「平民宰相」原敬が東京駅で凶刃に倒れてからちょうど100年。
清水さんは日本政治外交史の専門家として、長らく原の思想や事績の研究に情熱を傾けてきた。
予定はいっぱいに詰まっている。まずは原の故郷・盛岡で執り行われる追悼の法要に出席するため、早朝から出発せねばならない。午前5時半に起き、毎朝欠かさない納豆とめかぶで朝食をとった。
清水さんが原に興味をもった最初のきっかけは、高校生の頃にさかのぼる。
日本史の教科書を読んでいたときに、「初の本格的政党内閣を組織した原敬」というワードにぶつかった。
試験対策としてはそのまま覚えておけばよかったのかも知れないが、清水少年は好奇心旺盛な高校生だった。
「初の本格的」ってどういうこと。つまり、本格的じゃない政党内閣、失敗した政党内閣がその前にあったのか。じゃあ、原という人はなぜ失敗しなかったのか?
重なりあう、原敬の大正時代と「いま」
高校時代に軽く抱いたその疑問が、実は政党政治の根幹に突き刺さる重大な問いだったことがわかるのは、もう少し時間がたってからのことになる。
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大学を出て、清水さんが大学院に進んだのは1999年。政治家と官僚の関係が変わる大きな節目の時期だった。「官僚主導」から「政治主導」へ。ニュースではそんなキーワードがさかんに躍っていた。中央省庁の再編や、副大臣・政務官制度の導入に向けた道筋が付けられたのもこのころだった。
そんな中、「政と官」の関係に興味を抱いて研究生活を始めた清水さんは、研究に関係する資料や文献をあさるうち、何度も「原敬」の名前にぶつかった。
どうも原は、政官関係を考えるうえで欠かせないキーパーソンであるようだった。調べてみれば、大正時代に官僚と協働し、「政治主導」を実現させた総理がすでに存在したではないか……。
教科書の行間から、原の「ただものじゃない感」をかぎとっていた清水さんは、こうして原と再び出会った。その、「二度目」の出会いから起算してもすでに20年以上がたっている。感慨もひとしおだった。
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東京都内の自宅を出て、東京駅へ。午前7時8分発の東北新幹線「はやぶさ3号」に乗り、清水さんはさきほど撮った東京駅の写真をツイッターにアップした。
9月に清水さんが上梓(じょうし)した「原敬 『平民宰相の虚像と実像』」(中公新書)が評判を呼んでいた。
それは、原への一般的なイメージを大きく塗り替える一書だったからだ。
「平民宰相」なのに普通選挙制導入に反対し、庶民に背を向けた総理。
政友会という巨大な保守政党を牛耳り、「数は力」の政治を押し通した強権的な為政者。
「我田引鉄」で鉄道を地元への利益誘導の道具とし、こんにちの利権政治の元祖をなした人物――。
そうした原へのイメージが、必ずしも原の真実を映し出してはいないこと、ないしは原のごく一面しかとらえていないことを、清水さんは最新の研究に基づいて、「原敬」の中で丁寧に解きほぐした。
著者として、きょうが原敬没後100年の歴史的な日であることを一人でも多くの人に知ってほしかった。
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100年前の11月4日は金曜日。週末を前に、原も朝からあわただしかった。日記をつけるために書き残した簡単なメモが、その日の原の動きを今に伝えている。
「閣議、満鉄中間配当、国有財産、北海道山林、枢府労働委員決議、北海派遣救援隊、○フライシヤー来訪、〇支那董来訪、〇出発」(原文ママ)
凶変の翌日、1921年11月5日付の東京朝日新聞(東朝)は「昨日最後の拝謁(はいえつ)」という記事の中で、事件当日の原の行動を紹介している。記事によると、原は午前8時ごろには起きて、寝室で新聞各紙に目を通していたとある。
この日の東朝は、ワシントン海軍軍縮会議に参加する日本全権団が無事到着したと報じている。この連載の4回目で紹介した通り、原はこの会議を日本外交の潮流を変える大きな機会と考えていた。
シベリア出兵問題などを通じて日本を危険視するようになっていた米国などとの緊張関係を緩和し、国際協調を重視する路線への転換を図ることをめざしていた。
同時にそれは日本国内の保守派を刺激し、尾崎行雄が原暗殺の危険性を警告するまでになっていた。
「我全権は予定通り華府(ワシントン)に到着した」という見出しを朝の寝床で読んだ原は、ひとまずはほっとしたことだろう。その後、3~4人の来客をさばき、午前10時には閣議に出席するため芝公園の私邸を自動車で出発した、と事件翌日の東朝は伝えている。
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清水さんはもともと、原内閣発足から100年となる2018年9月29日をめざして、原研究の成果を世に問うつもりでいた。だが、資料集めや分析は思ったよりも時間を要した。内閣発足100年のタイミングはあきらめ、「没後100年」を新たなゴールに設定した。
そのかん、現実の政治と、原の時代が重なり合うように感じることもしばしばだった。
強力な人事権で官僚をおさえる首相官邸。絶対多数を背景にした与党による強気の国会運営。議員候補者の公認権を握る政党トップに権力が集中する小選挙区制。政権長期化の中で生じた「一強多弱」の政治状況……。
一方で、似て非なる部分も多い。単なる評伝ではなく、原敬を通じて、現代の政治を見つめ直すきっかけや教訓を提供したい。「原敬」の刊行を延ばした3年ほどの間に、清水さんはそんな思いを日々強くしていた。
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午前9時半前に盛岡駅に着いた清水さんは、原敬の101回忌法要が予定されている盛岡市の大慈寺へ向かった。原の菩提(ぼだい)寺でもある大慈寺で執り行われた法要には、清水さんを含め約140人が参列した。
100年前のこの日、原敬は…
100年前のこの日、原は午前中の時間を閣議に費やした。東朝によると、その閣議も正午過ぎには終わり、原は大正天皇に拝謁。大正天皇からの信頼厚かったと伝わる原の、これが最後の拝謁となった。
法要が終わると、清水さんは原の墓前に進み出た。原本人の遺言に従い、肩書など一切をはぶいて「原敬墓」とだけ刻まれたシンプルな墓所。手を合わせ、「ようやく本を書き上げることができました」と報告した。
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正午、盛岡の気温は15・5度。空は秋晴れで、平年よりやや暖かい気候だった。清水さんはこの日の昼食を断然「そば」と決めていた。
原も大のそば好きで知られた。さまざまな薬味を盛りつけできるよう、中ぶた付きの椀(わん)を妻の浅とともに考案したと伝わる。当時、原別邸でそばを提供していた「直利庵」の店主が、そこから刺激を得て「わんこそば」を考案したという説がある(ほかにも諸説あり)。
昼食をとった後は、これまでに何度も訪れた原敬記念館にも足を向けた。展示品の一つひとつが、原との出会いとこれまでの日々を思い起こさせた。
だが、いつまでも感慨にふけっているわけにはいかない。自分が担当しているゼミのオンライン授業が夕方から予定されており、ホテルに戻る必要があったためだ。
原敬は夕食の膳を急がせる
100年前のこの日午後4時。原は首相官邸から芝公園の私邸に戻った。「急いで飯だ」と家人に声をかけ、いつになく夕食の膳を急がせた……と東朝は伝えている。午後7時5分、翌日に政友会近畿大会が開かれる京都に夜行列車で向かうため、東京駅へ車で出発した。原は出掛けに上機嫌で「駅まで行けば一両日は休めるね」と家人に軽口をたたいたと当時の記事にある。
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オンライン授業を午後6時半に終えると、清水さんはおもむろにホテルを出た。岩手県公会堂にある原敬の銅像の前に立ち、そこで事件のあった午後7時25分を迎えた。日が沈み、あたりは少し肌寒くなっていた。
ホテルへ戻り、スマホを触っていると、岩手県在住の漫画家・あねがわさんがツイッターに投稿したイラストが目にとまった。暗殺直後、東京駅で、原のなきがらを清め、身なりを整える夫人・浅の気丈な姿を描いた絵だ。このとき浅は、他の人には手出しをさせなかったと伝えられる。
原敬記念館で目にした原の背広とシャツを清水さんは思い出した。おしゃれなピンク色のストライプ柄のシャツには、刃物でできた穴と生々しい血痕、応急手当ての際に破られたとみられる跡が残っていた。
浅の強い希望に基づき、原の遺骸は首相官邸ではなく芝公園の私邸に帰った。内閣総理大臣・原敬ではなく、たった一人の「原浅の夫」として。
生涯にわたって深い信頼で結ばれた夫婦の姿をやさしいタッチで描いた絵をしみじみと見返し、清水さんは「今日はいい1日だった」と思った。
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「ハラケイさん!」100年の時を超え、すれ違う二人
翌日昼。帰京した清水さんは東京駅丸の内南口改札に再び立った。そして、一つの風景を心の中に描いた。
周囲のざわめきがすーっと消え、背広を着た白髪の紳士が足早に改札に向けてやってくる。
飛び上がりそうな興奮を抑え…