光州事件、全斗煥氏は最期まで謝罪なく 憤る遺族、保革分断の影

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ソウル=神谷毅

 民主化を求める市民や学生を弾圧して多くの死者を出した「光州事件」を指揮した全斗煥(チョンドゥファン)元大統領が23日死去した。事件で家族を失った遺族らは、全氏の口から最期まで謝罪や反省の言葉が出なかったことに憤りを隠さない。全氏への評価は、来年3月の大統領選にも影を落としている。

 事件の現場となった光州市によると、1980年5月18日から10日間続いた市民らと軍の衝突による死者・行方不明者は242人にのぼる。ただ、正確な死者数や誰が発砲を指示したのかなど不明とされている点も多い。韓国政府による記録や統計もなく、韓国社会では「現在進行形」の問題として残る。

 全氏の訃報(ふほう)が報じられた後、全氏の側近は記者団に、「いつ、どこで(弾圧の)命令を下したのかをはっきり示さず、とにかく謝罪しろということはありえない」と語った。

光州事件の遺族「亡くなっても責任なくならない」

 光州事件で家族を失った女性らでつくる「5月の母の家」の事務総長、金炯美(キムヒョンミ)さん(54)は、20歳だった兄を軍の暴行で亡くし、後に結婚した夫も弾圧当時、銃撃戦で片目を失った。「全氏が亡くなったからといって責任もなくなるわけではない。当時の軍幹部で生きている人たちは多い。責任を問わなければいけない」と話した。

 韓国では現在、光州事件は「5・18民主化運動」と呼ばれる。光州事件の犠牲や運動がその後、87年に韓国の民主化実現につながったという意味が込められている。

 光州で弾圧が激しかったのは、独裁打倒と民主化を叫ぶ金大中(キムデジュン)氏(後の大統領)の地元だったという事情も影響したとされる。金大中氏は、光州事件を首謀したとして内乱陰謀などの罪で逮捕され、死刑判決を言い渡された。

 こうした経緯から、光州は民主化を成し遂げた進歩(革新)勢力の「正当性」を象徴する場所となった。文政権を支える与党「共に民主党」の「心臓部」ともいわれている。

 死刑判決まで受けた金大中氏だが、大統領選で当選した後、就任前の97年12月に金泳三(キムヨンサム)大統領に対して全氏の特赦を求め、これが実現した。ただ、この時に金大中氏が理由に挙げた保守と進歩(革新)の分断を克服する「社会の統合」は、韓国社会に今なお課題として残っている。

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