第6回原敬を乗せて自動車は駆ける 平民宰相が踏んだ新時代へのアクセル
原敬暗殺100年 慶応大・清水教授と歩く現場⑤芝公園編
東京・芝公園にあった原敬の私邸には、その日、朝から来客がひきもきらなかった。あいさつをしたり打ち合わせをしたり、そうこうするうちに参内(皇居に参上すること)の時間が刻々と迫る。
午前10時25分、玄関でカメラを構える報道陣を「時間がないから、早く!」とせかし、原敬はシルクハットにフロックコート姿で自動車に乗り込んだ。
激しく降る雨の中、車は皇居に向けて跳びはねるように走り出す。運転手はアクセルを踏み込む。高鳴るエンジン音は、雨音と混じって、出迎える人々の耳には「原敬(はらけい)、ただいま、参上」と聞こえたという。
1918(大正7)年9月27日。大正天皇から組閣の大命を受けるために私邸を出る原の様子が、そんなふうに翌日の東京朝日新聞に紹介されている。
初の本格的政党内閣が、ついに誕生する。高揚する時代の空気感が、紙面全体から伝わってくるようだ。写真に映る原は、玄関で靴をはきながら、こみ上げてくる笑いを我慢できないといった表情だ。
原敬が「平民」であり続けたわけ 記事の後半にポッドキャストも
平民宰相として喝采を浴び、強力なリーダーシップで政友会内閣を率いていた原敬が東京駅で突然の凶刃に倒れた悲劇から100年。朝日新聞「創刊5万号」の記念企画として、原敬研究で知られる慶応大教授の清水唯一朗さんと一緒にゆかりの地を巡り、事績をたどる小さな旅を続ける。
原が総裁をつとめる立憲政友会本部は、お祭り騒ぎだった。ビール、日本酒、すし、サンドイッチなどが景気よく食堂に並べられ、幹部たちが気勢を上げた。
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芝公園から皇居まで、距離にすれば車で数分ほどだが、原は車中で、ここまでの長い道のりをしみじみと思い返していたかも知れない。
日本政治外交史の専門家で、「原敬 ~『平民宰相』の虚像と実像~」(中公新書)を著した清水唯一朗・慶応義塾大教授とともに原ゆかりの地を歩く連載5回目。
今回は、原が亡くなるまでの30年近くを過ごした芝公園(現在の東京都港区芝公園1丁目周辺)を訪れた。
「原がここに居を構えたのは36歳、外務省通商局長のころでした。伊藤博文系の有能な官僚として、めきめき頭角を現していました」(清水さん)
ときは1892(明治25)年、原の邸宅ははやりの洋風建築であったが、決して広壮なつくりとはいえず、土地も東京府からの借地だったという。
そのコンパクトさが、後世、「原の私邸」のあった場所を特定するうえでさまたげとなる。
原の没後にあった関東大震災、戦災、そして戦後の開発などでかいわいの様子は一変し、原の小さな家屋敷がどこにあったのか、正確な位置は清水さんにもよくわからなかった。
ところが、港区立みなと図書館に所蔵されていた昭和戦前期の「火災保険特殊地図」(旧・芝区)が光明となる。火災保険料率の算定のために作成されたこの地図には、街並みや一戸ごとの情報が詳細に記されている。
原の嗣子・貢氏(のちの作家・原奎一郎氏)の名がそこにあり、これにより原邸が現在の「全国たばこビル」(港区芝大門1丁目)付近にあたることを突き止めた。
真向かいに板垣退助 政友会本部は100メートル先…
「原の邸宅は、なかなか面白い位置関係にありました」と清水さんはいう。
原がここに居を構えたころ…
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- 【視点】
音声メディアの最大の売りは「ながら」で聞けること。 マルチタスクとも呼ばれる、何かをしながら楽しめる機能は、新しい体験を提供してくれます。 平民宰相、原敬の足跡をたどったこの企画。 慶応大・清水唯一朗教授の話を聞きながら、
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