第5回原敬は「井伊直弼に…」 軍縮会議前夜、尾崎行雄が発したある予言

有料記事朝日新聞創刊5万号

構成・岸上渉 阪本輝昭

原敬暗殺100年 慶応大・清水教授と歩く現場④再び東京駅編

 「原君は、幕末の井伊掃部(かもん、井伊直弼)によく似ている」

 1921(大正10)年10月26日付の東京朝日新聞に一編の不気味なインタビュー記事があらわれている。語るは、「憲政の神様」こと尾崎行雄だ。

 尊王攘夷(じょうい)派をはじめとする批判勢力に徹底した弾圧を加え、江戸城桜田門外で暗殺された幕末の大老・井伊直弼に原をなぞらえた。

 「原君は実に剛腹で、無意味に敵をつくる人である。この点は殊に井伊掃部そのままである」

 もっとも、全体の論旨は原への皮肉にあるのではない。当時の対外世論、そして国際社会から日本に向けられる警戒の視線を憂え、攘夷論やテロが吹き荒れた幕末の時代状況にひきつけて論じている。さらに自らが全国を遊説して回った印象として、「多くの国民の胸裏には高慢心とうぬぼれ心以外に何物もないようだ」と断じてもいる。

「普通選挙はまだ早い」原がそう考えた理由は… 記事の後半にポッドキャストも

平民宰相として喝采を浴び、強力なリーダーシップで政友会内閣を率いていた原敬が東京駅で突然の凶刃に倒れた悲劇から100年。朝日新聞「創刊5万号」の記念企画として、原敬研究で知られる慶応大教授の清水唯一朗さんと一緒にゆかりの地を巡り、事績をたどる小さな旅を続ける。

 「大正政変」のみぎり、桂太郎内閣を打ち倒した民衆の熱気に押し上げられ、原の「現実路線」と相いれず立憲政友会を飛び出した尾崎も、このころには「民意」に対してやや懐疑的な目も向けるようになっていた。

 そのうえで、尾崎はおそろしい予言を口にする。

 「(海軍の軍縮などを話し合う)ワシントン会議に成功し、軍備の制限を実現し得たとすれば、井伊掃部が幕末の攘夷論者に刺し殺されたごとく、原君もその一身に危害を加えられはせぬかと考えている」

 その危惧は9日後、東京駅頭で現実のものとなる。

     ◇

 日本政治外交史の専門家で、「原敬 ~『平民宰相』の虚像と実像~」(中公新書)を著した清水唯一朗・慶応義塾大教授とともに原ゆかりの地を歩く連載4回目。

 今度は再び東京駅へ。清水さんが語る。

 「クリスチャンでもあった原は、米国からのワシントン会議参加呼びかけを受けて、『神がハーディング(米大統領)の頭に宿り、このことを企てしめた』と語るほど喜んだといいます。同時に、会議をなんとしても成功させたいと考えていました」

 ワシントン会議(1921~22年)は、世界で初めての軍縮会議だった。日本を含む当時の5大国が主力艦建造を10年間停止し、日本は主力艦の保有比率を対英米6割に抑えることが定められた。さらに、太平洋における勢力範囲を確定した4カ国条約、中国の主権尊重と経済上の門戸開放を約束した9カ国条約が交わされた――。教科書などが語るところは、おおむねこんなところまでだ。

 一方、国内では外国への譲歩や軍縮に反対する声が強かった。時の首相が命の覚悟までして臨まなければならないほどの会議だったことは、あまり知られていない。

国際社会に信頼されなければ… 原の先見と米国からの誘い

 原は、なぜこの会議にそこまでの思い入れをもっていたのだろうか。清水さんは当時の時代状況を解説する。

 「当時、日本は国際社会から…

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