第1回「先生、お会いしたいです」 植民地で教えた私に手紙が
あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~①(全5回)
立山連峰をのぞむ富山市郊外のサービス付き高齢者向け住宅。ここで暮らす杉山とみさんは7月で満100歳の誕生日を迎えた。
自室の箱には、韓国から届いた手紙の束が詰まっている。かつての教え子から届いたものだ。「先生、体に痛いところはないですか。お会いしたいです」。韓国語と日本語が交じった文面でつづられている。
「韓国は私にとっては、ふるさと。教え子たちはとても情が深いんです」
そう目を細める杉山さんは1945(昭和20)年8月の敗戦までの4年余り、日本が支配した植民地朝鮮で国民学校(小学校)の教壇に立った。戦時下の皇民化教育。朝鮮の子どもたちを立派な日本人にするのが教師の使命と信じた。
戦後は、戦争教育に関わったことへの自責の念にさいなまれ、教え子との再会を通じて、その苦しみを和らげていく。杉山さんが歩んだ人生は、戦後76年が経過し、戦争を体験した世代が少なくなるなか、貴重な歴史の証言として現代に重く響く。
父・源次郎さんと母・さとさんは富山県旧杉原村で本家の田畑を耕していた。日本が大韓帝国(当時の国号)を併合した後、父は単身、海を渡って朝鮮で生活基盤を築いた。母は四つ上の兄・正雄さんを抱いて後を追った。
両親は朝鮮半島南西部、全羅南道の霊光の農村を新天地に定め、果樹園を経営した。やがて21(大正10)年、杉山さんが生まれる。
霊光で暮らしたのは3歳ぐらいまで。兄が小学生になったが、自宅から歩いて通えないほど遠かった。両親は子どもの教育のため都市への移住を決め、果樹園を手放すことにした。
「生まれ故郷」の穏やかな農村風景は、果樹園の道沿いに咲く白いアカシアの花とともに、杉山さんの脳裏にかすかに浮かぶ。
一家は朝鮮半島南東部にある慶尚北道の中心都市、大邱に移り住む。両親は市中心部の「元町1丁目」に帽子店を構えた。屋号は富山の「富」の字をとって「富屋帽子店」にした。
店では2人の朝鮮人の青年が住み込みで働いていた。両親とも朝鮮語は話せず、朝鮮人の来客があると2人が応対した。「和吉」「一郎」という日本式の名前で呼んでいた。
自宅兼店舗があった目抜き通…
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- 【視点】
かつての韓国では、地元のお年寄りから、植民地支配下での日本の教師の話を聞くことが少なくなかった。 そういう記憶がやはり残りやすいこともあるのか。日本人教師評はすごく良いか、あるいはその逆か、はっきりと分かれた。 話術が巧みな故・金
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