ロックンローラー族は茨城で生き続ける 根ざす理由

藤田大道
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 1980年代、東京・原宿の歩行者天国では、黒い革ジャン姿の「ローラー族」がロックンロールにあわせて踊っていた。

 時を超えたいまも、ツイストをし、ステップを踏む人たちが茨城にはいる。

 週末の午後8時、水戸市の川沿いの広場は闇に包まれた。高校生から50代の20人ほどが集まってきた。

 「踊れてない人は外すからね!」。女性が声を飛ばす。仮設ライトがダンサーを照らした。膨らんだひざ丈のスカートの人もいれば、作業服の人もいる。

 音楽は50~60年代に米国で流行した「ダイアナ」「ロコ・モーション」「ロック・アラウンド・ザ・クロック」――。2時間以上、ぶっ通しで踊った。

 練習をしていたのはロックンロールチーム「Keep」。水戸市の会社経営、樋口裕行さん(53)が2004年に立ち上げた。約25人のメンバーは小学生から50代までと幅広く、週に1回は集まって練習する。

 樋口さんが「ローラー」デビューしたのは中学生の頃だ。「ただただ自分も格好をつけたかった」。地元の先輩と公園で練習し、祭りで踊った。社会人になって引退したが、30代後半の頃、街で踊る人たちを偶然見かけた。「今度はあの曲で、あんな風に踊ってみたい。想像が止まらなかった」と思いが再燃し、地元の仲間に声をかけた。

 「ロックンロールは怖い、悪いというマイナスイメージをかき消すところから始まった」と樋口さん。チームでは未成年のメンバーも歓迎する一方、親の送迎を義務づけるなど厳しいルールを作った。

 晴れ舞台は、毎年夏に水戸市内で開かれる水戸黄門まつりだ。07年に県内8チームの代表者で「水戸ロックンロールオーナーズクラブ」をつくり、主催者と協議を重ねてきた。今も正式参加ではないが、主催者側と時間・場所を決めて踊る機会を確保している。

 夜の練習でキレのあるツイストを見せていたのは水戸市の会社員、横山勇城さん(29)だった。ロックンロールを踊っていた父の姿を見て高校生の頃にチームに入った。振り付けや曲の「今も昔も変わらない、色あせることのないかっこよさ」にのめり込んだ。今では妻とともに練習に参加する日もある。

 高校3年の檜山京香さん(18)は父が聴いていたロックンロールに興味を持ち、「衣装も踊りもかわいいし、かっこいい」と小4から練習に参加した。ヒップホップダンスも習っていたが、「振りがそろった時の一体感がまるで違う」と小6の時にロックンロールを選んだ。毎晩自主練習に取り組み、「ゆくゆくは指導者になりたい」と語る。

 樋口さんは練習に励む若者たちの姿を見ながら、こう語った。「古くさい昭和の踊りを受け継ぐために、令和のロックンロールはルールを守る。祭りと言えば、山車、みこし、ロックンロールと言われるようにしたい」

 茨城のローラー族を研究する東京工科大の大山昌彦教授(社会学)は「茨城県内のローラーは日本でもトップクラスに多い」と言う。なぜか。「ロックンロールが地域に根ざしている」からだという。

 80年代初頭、原宿では全国各地からロックンロールを踊るためだけに集まるメンバーが多かった。しかし、茨城ではブーム終了後も、やんちゃな若者たちが祭りで目立つ手段として、地元で受け継がれてきた。

 90年ごろからは大人の趣味としてロックンロールを踊る人も現れた。「かつて踊っていた人が地域社会の一員となり、悪いイメージへの誤解を解きながら活動できる環境を整え、新たなローラーを発掘しているのです」(藤田大道)

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 ローラー族 1970年代後半から、東京・原宿などでロックンロールにあわせて踊っていた集団。50年代の米国風ファッションを着てオールディーズを踊るスタイル、革ジャンで日本のロックを踊るスタイルがある。

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