服従か連携か、大和との「距離」 古墳が語る出雲との関係
『古事記』が語る神話は、3割から4割が出雲系とされる。中央政権が編み、自らの正統性を知らしめるはずの伝承なのに、である。そこに隠されたのは大和と出雲の征服と服従の歴史か、それとも連携の記憶か。近年の研究成果から読み解いてみよう。
大和王権の成り立ちを後世に伝えるにはそぐわない一地方の物語が、これほど挿入されたのはなぜか。この問題をめぐっては、覇権を伸ばす中央勢力に出雲が屈し、傘下に入っていく過程を暗に示唆していると理解されることが多い。
奈良時代から平安時代にかけ、出雲大社でオオクニヌシをまつる出雲国造が新任時に朝廷で執り行った、天皇の世をことほぐ神賀詞(かむよごと)の奏上儀礼を、服属の名残と見なす意見も根強い。
ただ、そこにはなにか奥歯に挟まったような違和感、もどかしさがある。実は、『古事記』とほぼ同時期に成立した『日本書紀』は出雲神話にほとんど触れない。だから、ここに出雲侵略への負い目にも似た大和側の感情をかぎ取る研究者もいる。そんな出雲の複雑さは、考古学的にも見て取ることができそうだ。
近畿に勃興した大和政権が国内統合に乗り出す軌跡は「前方後円墳」の浸透からたどれる。近畿地方を中心に列島を覆う規格性の強いこの墓制は、まさに全国支配のシンボルであった。
ところが、どうも出雲は様子がおかしい。弥生時代以来の伝統的な「方墳」に固執する傾向があるのだ。中央におもねらない出雲人の矜持(きょうじ)や反骨精神の発露なのか。
いや、むしろ両者の密接な関係を物語るのでは――。そんな見方がある。
前方後円墳の規模が極大に達…
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