日本憎んだ元捕虜、75年後の許し「でも、忘れない」

有料記事戦後75年特集

シドニー=小暮哲夫
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 太平洋戦争の戦地には、連合国の一員だったオーストラリアからも、多くの兵士が送り込まれた。捕虜になり、過酷な経験をした人も少なくない。終戦から75年。「日本を許せるようになった」。豪南部アデレードに住む白寿の男性は、つらい記憶を乗り越え、そんな境地にたどり着いた。

 朝7時すぎ、日本軍捕虜収容所から数キロ離れた工事現場へ整列して出発する。8時に仕事が始まる。岩山を切り開くのに、作業は人力で、手にはくわ。昼食を挟んで夜まで続く――。

 1943年半ば、22歳だったキース・ファウラーさん(99)は、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道の建設に動員されていた。現場は、タイ西部の山岳地ヒントク。建設時の難所の一つだった。

 日本軍はビルマへの補給路を確保するため、建設を急いだ。南国の暑く、雨も多い気候のなか、仕事が深夜まで及んだことも多かった。24時間働き続けた日もある。休みは日曜日だけだった。

 食事は3度出たが、炊いた米に、大根が添えてあるくらい。激しい労働と栄養不足でやせ細り、脚気などで体調を崩す者が相次いだ。コレラも流行した。

 ファウラーさんはマラリアにかかった。40度超の高熱が出た日、収容所の仮設病院で一晩中、頭に水を浴び続けた。「それしか、対処するすべがなかった」。翌朝、幸運にも熱が下がった。

 仲間の捕虜が亡くなった、という話は何度も聞いた。だが、悲しむ余裕すらなかった。「朝起きて、働かされて夜、戻ってくる。私たちは、ゾンビのようになっていて、ほとんど話もできなくなっていた。ただ、日本軍を憎んでいた」

 鉄道建設は42年6月から43年10月まで続いた。国立の豪戦争記念館などによると、働かされた豪州人の捕虜は1万3千人。そのうち2800人が亡くなった。

 ファウラーさんは40年、豪陸軍に入った。「若くて冒険心があった」。地元アデレードの機関銃大隊の一員として翌年、中東シリア・レバノン戦線に派遣された。

 42年初め、日本軍が南進するなか、オランダ東インド(現インドネシア)へ送られた。同年2月、ジャワ島に上陸し、田んぼに機関銃を備えたが、オランダ軍が3月に降伏。ファウラーさんの部隊は戦わずに捕虜になった。

 ここでは働かされることはなかった。だが、命にかかわるような経験をした。

 ある日、収容所の粗末な食事…

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