俺の手、まるでミイラの様 「衣食住ない」シベリア抑留

有料記事戦後75年特集

志村英司
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 仙台市太白区の庄子英吾さんは、連日パソコンに自身の戦争体験記を打ち込んでいる。戦後75年。今月20日で94歳になる。18歳で旧満州にあった軍官学校に入り、終戦後は3年間のシベリア抑留で死線をさまよった。

 「良く見るとこれが俺の手かと思う程、骨と筋と皮ばかりで、色もどす黒く、まるでミイラの手の様だが、間違いなく俺の手なのだ」

 7月に執筆した「ああ我が母校」と題した体験記で、シベリアで「発疹(はっしん)チフス」にかかったことをこう振り返った。シラミが媒介する感染症で、強い頭痛や発熱、体に発疹が出るのが特徴。3カ月間、注射も薬もない収容所内の病院に横たわった。多い日には18人が死亡したと聞かされた。

 体験記は約1万2千字(400字詰め原稿用紙で30枚)で、数日で書き上げた。記憶は鮮明だ。きっかけは、1期生で入学した母校の仙台市立仙台高校(当時は仙台中学校)から、創立80周年を知らせる案内状が届いたことだった。「多くの人に戦争のことを知ってもらいたい」と思った。

 庄子さんは、1944年末に旧満州の新京(現・長春)にあった軍官学校に入校。爆弾を背負って戦車に体当たりする訓練などを繰り返すうち、終戦を迎えた。旧ソ連側から「東京に帰る」と言われて乗った貨車は、シベリアのブカチャーチャへ。炭鉱の町での強制労働を強いられた。

 「衣食住が何もない。衣は帰国ということで夏服を着ていた。食はソ連の手に握られて自由にならず、支給を待つばかり。住に至ってバラック一つ無い」

 そう振り返る収容所の施設や逃走防止の鉄条網なども自分たちでつくらされた。冬場は零下40度を下回る。着のみ着のままで栄養状態が悪く、死者が相次いだ。そのたびに庄子さんたちが「一本松墓地」と呼んだ場所まで大八車で運んだ。入校時375人いた同期のうち83人が抑留中に犠牲になった。

 「帰国しても捕虜の事は恥ずかしくて家族以外には、殆(ほとん)ど語らなかった」といい、農協勤務やプロパンガス販売など仕事に打ち込んだ。2人の子どもを育て、幸せな家庭を築いた。

 だが、91年に墓地調査のためのシベリア訪問が許され、記憶の風化を思い知らされた。地元住民で墓地の場所を知っている人はいなかった。「四十数年前のことが、そんなに早く忘れ去られるものか」。驚きと同時に憤りを覚えた。2年後の遺骨収集団にも加わり、約370人分の遺骨を千鳥ケ淵戦没者墓苑に納めた。

 2012年には仙台高校で初めて抑留体験を語るなど、講演で各地に出かけた。「同期のあの83人に自分は生かされている」という思いが強い。数年前からしゃべりづらくなり、執筆に力を入れる。国から元抑留者に支給された25万円も体験記の製本にあてた。記憶の風化にあらがうのは、「咲かずに散った同期の桜たち」のためだという。

 軍官学校の同期で宮城県出身の10人ほどのうち、存命は庄子さんだけ。「横になって構想が浮かぶと、起きてパソコンに入力することもある。若い人たちには、国を守ることの大切さと、戦争の悲惨さを知ってもらいたい」

 軍官学校の名簿や、遺骨収集の様子を撮影したビデオテープなどは、今後の調査研究に役立ててほしいと願う。問い合わせは、庄子さんが入居する高齢者施設「時のかけはし」(022・226・7221)へ。(志村英司)

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