86歳から描いたシベリア抑留の記憶、画家の「遺言」

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阿部浩明
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 風景や静物を好んで描いた北海道函館市の画家、故石川慎三さんは、90歳を目前にして突然、画風が変わった。とりつかれたように描いたのは、北千島での戦闘とシベリア抑留体験だった。つらい記憶と向き合い、若い世代に託した「遺言」とは?

画家の夢、戦争で諦めた

 慎三さんは1919年に函館に生まれた。子どもの頃から絵が好きで、画家を志した。旧制中学時代は東京美術学校(現・東京芸大美術学部)への進学を目指し、絵の予備校にも通って勉強を重ねた。だが、戦争によって夢は諦めざるをえなくなった。

 20歳で旭川の陸軍歩兵部隊に入隊。やがて北千島の守備隊に配属となり、函館から1500キロ以上離れた幌筵(パラムシル)島に渡った。45年8月15日、日本の無条件降伏を知る。ところが、慎三さんたちに「終戦」はまだ訪れなかった。

ソ連の侵攻、すぐ横で仲間が、、、

 3日後の18日未明。ソ連軍がカムチャツカ半島から北千島列島最北端の占守(シュムシュ)島に侵攻してきた。5日間の激しい地上戦に巻き込まれ、日本、ソ連の両軍とも多数の死傷者が出た。

 すぐ横で、仲間が撃たれて倒れる。爆弾で吹き飛ばされる。船で移動中、別の船に移された直後、ついさっきまで乗っていた船が撃沈されたこともある。

 「隣で死んだあいつが、俺であっても不思議じゃない。生き延びたのは運としか言いようがない」

 死と隣り合わせの恐怖を、慎三さんは妻の和加子さん(93)に語っていた。

 武装解除され、投降した翌日。硝煙が漂う丘の向こうから、ソ連兵の集団がこちらに向かって近づいてきた。武器を持たない慎三さんらは身構えた。姿がはっきり見え出すと、その手には、民俗楽器のバヤン(アコーディオン)や弦楽器のバラライカを持っていた。信号ラッパしかなかった日本兵たちは、戦場に楽器を持ち込んでいたことに驚いた。

 「戦争、済みました。一緒に歌いましょう」

 ソ連兵が声をかけてきて、楽器を鳴らしたり、コサックダンスを陽気に踊ったりした。日本兵も童謡「鳩ぽっぽ」やイタリア民謡「サンタルチア」を歌って返した。

零下30度の極寒、シベリアへ

 そんな「懇親」もつかの間、慎三さんたちはシベリアへと送られる。

 零下30度を下回る厳寒、強制労働、栄養失調……。過酷な抑留生活を体験した慎三さんは、人間考察など別の一面を、手記「もうひとつのシベリア抑留」に書き残した。

 日本人捕虜収容所の近くにドイツ人捕虜収容所があり、穴掘り作業などを通じて交流があった。ソ連が示したノルマ表に従うだけの日本人に対し、ドイツ人はノルマ表の不合理性を指摘。日本人の自律性のなさを笑っていた。慎三さんは「私を含めて日本人は強いものや権力、権威に弱いようである」と書いている。

 重労働を強いられていたが、やがてウラジオストクの収容所で「極東沿海州芸術班」が編成され、慎三さんは絵描きの腕が買われて絵画部門に所属した。さまざまなロシア名画の模写や、レーニンやスターリンら指導者の肖像画を描かされた。

 音楽部門には、俳優黒柳徹子

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