第2回中絶のはずが産声あげる赤ちゃん 法律破った医師の信念

有料記事内密出産 いのちをつなぐ

山田佳奈
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内密出産 いのちをつなぐ②

 法律を超えて、女性と赤ちゃんを救う取り組みをした医師が45年前にもいた。

 1973年4月17日、石巻日日新聞の1面に「急告! 生れたばかりの男の赤ちゃんをわが子として育てる方を求む(原文ママ)」という広告が掲載された。翌日には石巻新聞にも。広告を出したのは、宮城県石巻市の医師、菊田昇さん(故人)だった。

 菊田氏は勤務医を経て、故郷の石巻で58年に産婦人科医院を開業。高度経済成長を背景に人口が右肩上がりに増える一方、経済的な理由や未婚での妊娠などのため中絶を希望する女性たちも多かった。石巻にかぎった話ではなく、人知れず出産した未婚の女性が赤ちゃんを捨てる「コインロッカーベビー」が社会問題になった時代でもあった。

 菊田氏は色街で旅館を営む両親のもとで育った。中絶をしに来る女性たちに、男性の都合に泣かされる女郎さんたちの姿が重なった。

 当時、中絶は妊娠7カ月までできた。胎児が母体外で生命を保つことができない時期として定められたものだった。だが、実際にはこの時期の赤ちゃんが産声を上げることがあった。生きようとしている赤ちゃんを、手術室の冷たい台の上に置きっぱなしにして死なせるしかなかった。菊田医師の長男で医師の信一さん(64)は、「ナースたちが、『昨日の中絶手術で赤ちゃんがオギャーって生まれてきてね、つらかった』と話していたのを覚えています」と振り返る。命を育むはずの産婦人科の現実だった。

 赤ちゃんの命を守りたい。理不尽さの中で、菊田医師の思いは強くなっていった。

 菊田医師が選んだのは、中絶を希望する女性にそっと出産させ、子どもを望んでいる別の夫婦の名前で出生届を出すこと。菊田医師をそばで支えた妻静江さん(88)は「不妊治療にもたくさん来られていた。その方たちの中から、どんな赤ちゃんでも慈しんで育てたいという熱意のある夫婦を選びました」と話す。これなら、女性の戸籍に「出産」が残らず、赤ちゃんもいい家庭で育つことができる。もちろん、違法行為だ。それでも、この方法しかないと菊田医師は思い定めた。こうして100人以上の赤ちゃんを、ひそかに養子に出し、その命を救ってきていた。

 「新聞広告を出したのは、世…

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