日産救ったゴーン氏、節税固執「公私混同」注意で左遷も

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 1999年3月、パリのシャルル・ドゴール空港に隣接したシェラトンホテルの会議室。日産自動車社長(当時)の塙義一(はなわよしかず)と、仏自動車大手ルノー会長(同)のルイ・シュバイツァーが資本提携に向けた最終交渉に臨んでいた。シュバイツァーが最後に示した提案は、日産に送り込むカルロス・ゴーンの報酬の仕組みについてだった。「固定給のほかに、株価に連動したストックオプションのような報酬を与えてほしい。そうしないと彼は納得しないだろう」

 ストックオプションは自社株を買える権利のこと。日本ではまだ導入例は少なかった。シュバイツァーは仕組みを詳しく解説し、「経営陣にも成果主義を導入すればモラルが高まる」と力説。塙はけげんな様子で質問を繰り返した。

 倒産寸前だった日産が並行して進めた旧ダイムラークライスラーとの提携交渉は破談になっていた。ルノーとの提携が頼みの綱となっていた日産は、シュバイツァーの提案を「善処します」と請け合った。

 約4時間に及んだ交渉の「8~9割はゴーンの報酬のことだった」と、交渉担当役員として同席した鈴木裕は回想する。鈴木はそれを悪いこととは思わなかった。「実績を上げて高い報酬を受け取るのは、海外では当たり前のこと」。そう受け止めたからだ。

 その約2週間後に両社が資本提携を発表すると、ゴーンはすぐさま日産に乗り込んできた。「セブン・イレブン」と異名をとるほど早朝から深夜まで働く姿は、日産の社員には新鮮だった。ゴーンは各部門を次々とヒアリングし、瞬く間に日産の問題点を把握していった。99年10月には、村山工場など5工場閉鎖を含む抜本的なリストラ策「日産リバイバルプラン」をまとめた。その大胆な内容は社内外に衝撃を与えた。

 日産の財務担当幹部は当時、ゴーンの意外な関心事に驚いた。

 「何日以上日本にいると、日…

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