夏目漱石「吾輩は猫である」184

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 見ると年頃は十七、八、雪江さんと追(お)っつ、返(か)っつの書生である。大きな頭を地(じ)の隙(す)いて見えるほど刈り込んで団子っ鼻を顔の真中にかためて、座敷の隅(すみ)の方に控えている。別にこれという特徴もないが頭蓋骨(ずがいこつ)だけは頗(すこぶ)る大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹(ひ)く事だろう。こんな頭にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようで頗る偉観である。着物は通例の書生の如く、薩摩絣(さつまがすり)か、久留米(くるめ)がすりかまた伊予絣か分らないが、ともかくも絣と名づけられたる袷(あわせ)を袖短かに着こなして、下には襯衣(シャツ)も襦袢(じゅばん)もないようだ。素袷(すあわせ)や素足は意気なものだそうだが、この男のは甚(はなは)だむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印(いん)しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏(か)しこまっている。一体かしこまるべきものが大人しく控えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭(いがぐりあたま)のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にする位の連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙の君子、盛徳の長者(ちょうしゃ)であるかの如く構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず傍(はた)から見ると大分可笑(おか)しいのである。教場もしくは運動場(うんどうば)であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束(かんそく)する力を具えているかと思うと、憐(あわ)れにもあるが滑稽でもある。こうやって一人ずつ相対(あいたい)になると、如何に愚●(馬へんにムの下に矢、ぐがい)なる主人といえども、生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵(ちり)積って山をなすというから、微々たる一生徒も多勢が聚合(しゅうごう)すると侮(あなど)るべからざる団体となって、排斥運動やストライキをし出かすかも知れない。これは丁度臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支(さしつかえ)あるまい。それでなければかように恐れ入るといわんよりむしろ悄然(しょうぜん)として、自ら襖(ふすま)に押し付けられている位な薩摩絣が、如何に老朽だといって、苟(かりそ)めにも先生と名のつく主人を軽蔑(けいべつ)しようがない。馬鹿に出来る訳がない。

 主人は座布団を押しやりながら、「さあお敷き」といったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」といって動かない。鼻の先に剝(は)げかかった更紗(サラサ)の座布団が「御乗んなさい」とも何ともいわずに着席している後ろに、生きた大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場(かんこうば)から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団は正(まさ)しくその名誉を毀損(きそん)せられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔を潰(つぶ)してまで、布団と睨(にら)めくらをしている毬栗君は決して布団その物が嫌(きらい)なのではない。実をいうと、正式に坐った事は祖父(じい)さんの法事の時の外は生れてから滅多にないので、先っきから既にしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控えているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きというのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。この位遠慮するなら多人数(たにんず)集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじき所へ気兼(きがね)をして、すべき時には謙遜(けんそん)しない、否(いな)大に狼藉(ろうぜき)を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。

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