夏目漱石「吾輩は猫である」128

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 しばらくすると二、三人の職人が来て半日ばかりの間に主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四(よ)つ目垣(めがき)が出来上がった。これで漸々(ようよう)安心だと主人は喜こんだ。主人は愚物である。この位の事で君子の挙動の変化する訳がない。

 全体人にからかうのは面白いものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶ位だから、落雲館の君子が、気の利かない苦沙弥先生にからかうのは至極尤もなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうという心理を解剖して見ると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気で済ましていてはならん。第二からかう者が勢力において人数(にんず)において相手より強くなくてはいかん。この間主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いて見ると駱駝(らくだ)と小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風の如く廻転して吠(ほ)え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として脊中へ瘤(こぶ)をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想をつかしてやめる、実に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手(じょうず)でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればといって獅子(しし)や虎(とら)のように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して怒(おこ)る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないという安心のある時に愉快は非常に多いものである。何故こんな事が面白いというとその理由は色々ある。先ずひまつぶしに適している。退屈な時には髯(ひげ)の数さえ勘定して見たくなる者だ。昔し獄に投ぜられた囚人の一人は無聊(ぶりょう)のあまり、房(へや)の壁に三角形を重ねて画(か)いてその日をくらしたという話がある。世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうというのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。但し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうという娯楽に耽(ふけ)るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに暇(いとま)なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢な事を実地に証明するものには尤も簡便な方法である。人を殺したり、人を傷(きずつ)けたり、または人を陥(おとしい)れたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行した後に必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないという場合には、からかうのが一番御恰好(おかっこう)である。多少人を傷けなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間は自己を恃(たの)むものである。否(いな)恃みがたい場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だという事を、人に対して実地に応用して見ないと気が済まない。しかも理窟(りくつ)のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ち付きのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一返でいいから出逢って見たい、素人(しろうと)でも構わないから抛(な)げて見たいと至極危険な了見を抱(いだ)いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由は色々あるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節(かつぶし)の一折(ひとおり)も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。

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