(ナガサキノート)「平和継承之礎」建立、込めた思い

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力丸祥子・27歳
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木原繁義さん(1938年生まれ)

 昨年、佐賀県鹿島市の市立鹿島小学校に立ち寄った。駐車場の一角に「平和継承之礎」と書かれた石碑がひっそりと立っていた。側面にはこんな説明が刻まれている。

 この碑は、私達鹿島市原爆被爆者の会々員が(中略)、これからの皆様に平和な世の中を作り、語り継いで欲しいとの願いを込めて建立した。

 一文を読み、県外にも原爆に苦しんだ人たちがいることを実感した。説明は続く。

 長崎に原爆が投下され、沢山の人が死んだり傷つき、その中の百名近くの人が鹿島小学校の講堂に送られ、救護所となった。

 長崎市から約45キロ離れた地でも、救護活動が行われたことに驚いた。裏には「平成二十三年建立」とある。まだ新しい。この碑に込めた思いや救護活動について詳しく話を聞きたいと思った。

 鹿島小などの協力を得て、会長の木原繁義(きはらしげよし)さん(76)に会うことができた。

 木原さんが佐賀県の鹿島市原爆被爆者の会の会長になったのは2009年。病気で引退した前会長から任された。

 このころから、会員の高齢化が深刻化。毎年8月9日は会員が集まって長崎市に行き、平和祈念式典に出席していた。だが、次第に「平和公園に向かう階段がきつい」などと訴える会員が増えていた。一方で、「原爆犠牲者のために手を合わせる場所がほしい」という気持ちは共通だった。

 08年、かつて救護所になった鹿島小学校が改築されることになった。木原さんたちは「鹿島の救援活動を後世に伝えるため碑を建設したい」とする要望書を市などに出した。熱意が伝わり、校内の土地を一部借りることができた。碑をつくる費用は会員で出し合い、11年8月6日、鹿島小で「平和継承之礎」の除幕式を開いた。

 「会長になり、被爆体験の継承を真剣に考えるようになった」。木原さんにも次世代に伝えなくてはいけない体験や思いがある。

 木原さんは1938年、大分県日田市で生まれた。父茂(しげる)さんは調理師。母ヨシエさんと食堂を営んでいた。両親は息子にそれぞれの名前にちなみ「しげよし」と名付けた。

 だが7カ月後、ヨシエさんは腸の病気で急死。「母の記憶はないんです」。木原さんは自宅の居間に掲げたヨシエさんの遺影を見つめながら、寂しそうに言った。

 茂さんは食堂を閉め、親戚のいる長崎市に引っ越した。間もなく、外地へ出征を命じる赤紙が届く。1人になった木原さんを両親に替わって育ててくれたのは、祖母ムメさんだった。2人で山口や九州の親戚の家を転々としながら暮らす日々が続いた。

 茂さんはたびたび体調を崩し、日本と戦地の行き来を繰り返した。木原さんが5歳になるころ、茂さんは長崎市にあった三菱兵大橋工場の食堂で調理師としての勤務を命じられた。離ればなれだった親子は長崎市勝山町の長屋で一緒に暮らすことになった。「父との暮らしは本当に幸せでした」

 戦地から戻った茂さんとやっと一緒に暮らせるようになった木原さんには、もう一つうれしいことがあった。暮らしていた長屋の目の前にあった勝山国民学校(現在の長崎市立桜町小学校)への入学だ。コンクリート造りの校舎はきれいで、運動場も広かった。1945年の春に入学。「華の一年生だった」と振り返る。

 ところが、入学して2カ月もしないころ、「長崎に大きな爆弾が落ちるらしい」という話を聞いた。家族の誰が、どこで聞いてきたのかは定かではない。木原さんと祖母ムメさんは親戚を頼って疎開することになった。転校は嫌だったが、仕方なかった。ムメさんに手をひかれ、現在の佐賀県鹿島市に行った。

 転校先の七浦村国民学校はのどかで静かだった。だが、茂さんに会いたい気持ちは日を追うごとに強くなった。「おやじ、早く迎えに来て」。疎開先の家で毎日思っていた。雨の日に、寂しい気持ちで眺めた色鮮やかな青のアジサイを今でもよく覚えている。

 45年8月9日、疎開先で木原さんは「長崎市内全滅」との知らせを聞いた。真っ先に浮かんだのは長崎にいる茂さんの顔だった。

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 一緒に住んでいたころ、得意…

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