夏目漱石「三四郎」(第七十九回)八の五

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 翌日は幸い教師が二人欠席して、午(ひる)からの授業が休みになった。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵えて、美禰子の家へ行った。前を通った事は何遍でもある。けれども這入るのは始めてである。瓦葺(かわらぶき)の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎は此処(ここ)を通る度(たび)に、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ逢った事がない。門は締っている。潜(くぐ)りから這入ると玄関までの距離は存外(ぞんがい)短い。長方形御影石(みかげいし)が飛び飛びに敷いてある。玄関は細い奇麗な格子(こうし)で閉(た)て切ってある。電鈴(ベル)を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅(おたく)ですか」といった時、三四郎は自分ながら気恥かしいような妙な心持がした。他(ひと)の玄関で、妙齢(みょうれい)の女の在否を尋ねた事はまだない。甚(はなは)だ尋ね悪(にく)い気がする。下女の方は案外真面目(まじめ)である。しかも恭(うやうや)しい。一旦(いったん)奥へ這入って、また出て来て、丁寧(ていねい)に御辞儀をして、どうぞというから尾(つ)いて上がると応接間へ通した。重い窓掛(まどかけ)の懸(かか)っている西洋室である。少し暗い。

 下女はまた、「暫(しば)らく、どうか……」と挨拶をして出て行った。三四郎は静かな室(へや)の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蠟燭立(ろうそくたて)が二本ある。三四郎は左右の蠟燭立の真中に自分の顔を写して見て、また坐(すわ)った。

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 すると奥の方でヴァイオリン…

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