「日の丸飛行隊」の故・笠谷幸生さん 原田雅彦さんを救った言葉

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勝見壮史

 1972年札幌五輪のスキージャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で優勝した笠谷幸生さんは、冬季五輪では日本勢初の金メダリストとして知られる。2位の金野昭次さん、3位の青地清二さん(ともに故人)と表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と称され、日本中を熱狂させた。

 ただ、当時、笠谷さんの胸にあったのは栄光ではなかった。

 2冠がかかった90メートル級(現ラージヒル)。1回目に106メートルを飛んで2位につけたが、2回目に85メートルと失速し、7位に沈んだ。「勝負は90メートル級。70メートル級のメダルは、90メートルが始まるまでの代用品みたいなものなんだ」。のちに、笠谷さんは朝日新聞の取材にそう語っている。

 誰よりも遠くに飛ぶことを競うジャンプ競技。いまならノーマルヒルより、ラージヒル。大きな台で飛距離を出して勝ちたいというのがジャンパーの本能だろう。

 「90メートル級は惜しかったですね」。笠谷さんは会う人からそう言われ続け、しばらくは心に深い傷が残っていたという。

 口数が少なく、気むずかしい。でも、技は確かで職人気質だったとジャンプ関係者は口をそろえる。日本代表コーチ時代は懇切丁寧に教える指導者ではなかった。スタッフとして支えた全日本スキー連盟元常務理事の斉藤智治さんは「お前は選手とうまく話せていいなあと言われた。口下手だから、うまく伝えられなかっただけだと思う」。

 口が重いからこそ、発せられ…

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