津波被災で流された仙台・中野小の大切り株 ふるさとへ「帰還」

石橋英昭
[PR]

 【宮城】大きな大きな杉の木の切り株は、小学校の宝物だった。校舎は東日本大震災の津波でめちゃくちゃになり、8年前に閉校。学校があったまちもなくなってしまった。そのふるさとに3月、みんなに愛された切り株が帰ってきた。

 仙台市宮城野区の中野小学校の玄関に、切り株はでんと置かれていた。直径120センチ、厚さは40センチ。毎朝子どもを出迎え、見守り、時にはその上にお知らせの紙が置かれた。

 1873年に創立された中野小は、何度か引っ越しをした。最初に移った所の校庭に、巨大な杉の木がずんと立っていた。昭和の初めには、運動会のとき「青空高く雲晴れて/庭の大杉中にして……」と歌われていたそうだ。

 戦争が終わって2年後の1947年、杉の木は校庭の整備のために切り倒された。でも、切り株は学校の大事なシンボルとして残されることになった。

 2011年3月11日、学校は2階まで達する津波に襲われた。切り株は校舎の奥まで流されて、がれきに埋まってしまったが、自衛隊の人たちが懸命に運び出してくれた。

 切り株を預かったのが、青葉山にある東北大学の植物園だ。泥水につかっていたが乾かし、表面を磨いてきれいにしてくれた。樹木を研究する大山幹成さんが数えたところ、年輪の数は317本。ほかの標本とも照らし合わせ、1631年から伐採された1947年までが刻まれていたことがわかったという。

 杉の木は、ちょうど伊達政宗公が慶長三陸地震津波(1611年)からの復興に取り組んでいるころ、芽を出したらしい。年輪は前の年の気温や降水量によって幅が変わるので、たどってゆけば冷害や飢饉(ききん)といった災害の歴史が浮かび上がる。これだけ古い年輪標本は珍しく、植物園で展示されてきた。

 一方、中野小は津波のあと、別の学校に間借りをして授業を続けてきたが、2016年、143年の歴史を閉じた。学校があった蒲生地区は人が住めなくなり、工場や倉庫会社が立ち並ぶ産業団地に姿を変えた。地域の人たちはみなバラバラになってしまった。

 そして、震災から13年がたった今年3月。

 蒲生で操業を始めたバイオマス発電所の建物の一角に、展示スペースが開館した。名称は「蒲生なかの郷愁館」。発電所の会社がもとの住民たちと相談し、地域の自然や歴史のこと、震災のことを伝えるためにつくった施設だ。学校のシンボルだった杉の木の切り株も、東北大の植物園から移して置くことになった。

 展示を企画した八巻寿文さんは「この杉は、蒲生・中野に人が住みついて集落ができたころから、ずっとまちの歴史を見続けてきた存在。よく戻ってきてくれた」と話す。

 郷愁館は、中野小があった場所のすぐ向かい側にある。切り株は玄関にでんと置かれ、ふるさとを懐かしむ人たちを出迎えている。石橋英昭

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら