祖父を殺した原爆が「命を救った」? 異なる歴史観、歩み寄れる道は

有料記事核といのちを考える

聞き手 編集委員・塩倉裕
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 広島・長崎への原爆投下は正当な行為だったと信じている人が多い米国で、被爆の実相を伝える原爆展を開いた日本人女性がいた。直野章子さん。今から28年前、23歳だった。

 当時会場で遺品を目の当たりにした米国の人々の反応はどんなものだったのか。そもそも、原爆投下の歴史を米国と日本が共有していく道筋はあるのだろうか。

 核抑止論が台頭する今、歴史社会学者として被爆者の歴史を研究している直野さんに、原爆の記憶のありようについて聞いた。

投下は是か非か、激しい論争の中で

 ――直野さんが米国で原爆展を開いてから、もう28年がたつのですね。第2次世界大戦の終結から50年にあたる節目の年だったこともあり、原爆投下の是非をめぐって米国内で激しい論争が起きたときでした。

 「私は1995年7月に、広島市と協力して、米国で原爆展を開催しました。会場は首都ワシントンのアメリカン大学です。原爆で黒こげになった弁当箱や被爆に苦しむ人々の写真など、広島・長崎両市から貸し出された被爆資料を展示しました。私が23歳のときの話です」

 「当時、同じワシントンにある米国立スミソニアン航空宇宙博物館では、原爆の被爆資料を紹介しようとした企画が、退役軍人らの激しい抗議によって中止に追い込まれていました。米国社会には『原爆投下は戦争終結を早め、多くの米兵の命を救った』と投下を正当化する考え方が広がっており、退役軍人らは博物館の企画に対して『原爆投下の正当性を問い直すことは太平洋戦争を戦った米兵たちへの侮辱だ』と批判したのです。私たちの原爆展は、被爆資料を展示しようとしたスミソニアン博物館の企画が中止に追い込まれた直後に開催される形になりました」

 ――あのとき、なぜ米国で原爆展を開くことになったのですか。

 「私自身は兵庫県の出身なのですが、母と祖父母は広島で被爆しており、祖父は原爆に命を奪われています。被爆からひと月もたたないうちに原爆による急性放射線障害で、苦しみながら亡くなったそうです。10代なかばの女学校時代に被爆し、近所に住んでいた後輩の死を腕の中でみとったという話を、伯母から聞かせてもらったこともあります。そういう環境もあってか、小学生のころには『平和のために何かをしたい』と思い始めていました。国連で働きたいと思い、91年にアメリカン大へ留学しました」

 「米国史の授業で原爆投下に…

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