震災の後、甲子園で涙とともに浮かんだのは…2月7日の風景の気づき

有料記事高校野球メソッド

構成・安藤嘉浩
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 日大三島(静岡)の永田裕治監督(59)は、母校・報徳学園(兵庫)の監督に就任して1年目、31歳のときに阪神・淡路大震災で被災した。「あの経験が指導の原点」と語る。

 1995年1月17日午前5時46分、私はズドーンという激しい衝撃で目を覚ました。阪神・淡路大震災だ。

 兵庫県西宮市にある5階建てマンションの5階。妻と3歳の長男、1歳の長女の上にタンスが倒れ込んでいた。いま考えても、無事だったのは奇跡やと思う。

 マンションの横を走る新幹線の高架橋はぐねりと曲がるように倒壊した。もし新幹線が走っている時間だったら、うちに飛び込んできたかもしれん。

 家族の無事を確認して、すぐ思い浮かんだのが生徒たちの顔やった。

 報徳学園までは数百メートル。家族を車に乗せて学校へ向かった。実験室が焼け、グラウンドに亀裂が走っている。ひび割れた地面にノックバットが入り込んでいた。

 その晩はマウンド付近にとめた車の中で、家族と一夜を過ごした。ほとんど眠れんかった。

 野球部員51人のうち、49人は無事が確認できた。だけど、2人だけ連絡がとれない。

 翌日、原付きバイクで芦屋市に住む部員の家に向かった。信号は止まり、あちこちで建物が倒れている。現実とは思えんような風景やった。

 その生徒は近所の中学校のプールで、地域住民と水を運んでいた。「無事やったか」。再会できたときのうれしさは忘れられない。

 そのまま神戸市長田区の部員…

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