朝日新聞「文芸時評」の記述めぐり議論 桜庭一樹さん、鴻巣友季子さん

 8月25日付朝日新聞朝刊に掲載した「文芸時評」について、本文でとりあげられた小説「少女を埋める」(文学界9月号)著者の作家、桜庭一樹さんから記事が作品の内容と違うという趣旨の指摘があり、議論が広がっています。桜庭さんと、文芸時評の筆者で翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子さんに、見解を寄稿してもらいました。

 ■読み方は自由でも…あらすじと解釈は区別を 作家・桜庭一樹さん

 私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています。ところが朝日新聞の文芸時評に、内容とは全く逆の「(母は父を)虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」というあらすじが掲載されてしまいました。

 そのようなシーンは、小説のどこにも、一つもありません。

 朝日新聞は数百万部発行の巨大メディアであり、影響力は甚大です。時評で「自伝的随想のような、不思議な中編」と紹介されたこともあり、私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中傷が及ぶことをも心配し、訂正記事の掲載を求めました。

 小説の読み方は、もちろん読者の自由です。時には実際の描写にはない余白のストーリーを想像(二次創作)することもあり、それも読書という創造的行為の一つだと私は考えます。しかしその想像は評者の主観的解釈として掲載すべきであり、実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いては、いけない。それは、これから小説を読む方の多様な読みを阻害することにも繋(つな)がります。

 評者の鴻巣友季子氏は、ネット上で“解釈は自由”“読みはひらかれている”“あらすじと解釈は不可分”という文学の一般論を、自分の想像をあらすじとして紹介したことへの言いわけに使っているように見えました。作者の私は、そういった意味合いで“自由”な文芸時評が“読者の解釈の自由”を奪ったことに抗議するとともに、母の名誉の回復をも願っています。

 ■作品に創造的余白、読者の数だけ「ストーリー」 文芸時評筆者・鴻巣友季子さん

 本作は掲載誌にも「創作」と銘打たれ、優れたフィクションとして読んだ。人物モデルがいるいないに拘(かか)わらず、現実とは切り離して紹介したい。

 温かなだけの家族小説ではない。主人公が過去に母から受けていた暴力、それを他言しないよう頼まれたこと、夫婦の不仲。抑圧され「怒りの発作」を抱えた母、その「嵐」をこらえていた父……。だからこそ、母と娘、妻と夫の絆の再生と、主人公の決意が胸を打つ。

 母の父への「虐(いじ)め」については複数の読み方が可能で、私の評でも解釈の提示にとどめたつもりだ。読解の自由と多様性は桜庭さんも大切にされている。読者の数だけ“ストーリー”があるというのが前提なのだ。

 あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい。小説にはあえて「言わずに言う」ことや、省略、暗示、要約等の空白がある。例えば、女が男に掴(つか)みかかろうとする描写の暫(しば)し後に、女が「乱暴してごめん」と謝る場面があれば、暴力があったと理解する妥当性がある。本作には創造的な余白が多く、そこが一義的な“感動小説”と違う点だ。

 あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大だ。読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか懸念される。

 それでも今回は要請に従いウェブ版を修正した。批評者として守るべき原理原則はあるが、桜庭さんの気持ちを思うと苦しかった。自分の読みを常に問い直すべしと心に刻んだ。

 ■担当者から

 朝日新聞は今回の文芸時評について、筆者である鴻巣さんの評論の表現として認められる内容と判断し、掲載しました。その後、桜庭さんから指摘があったことを受け、鴻巣さんの意向をふまえて、朝日新聞デジタルの文芸時評の記事に「わたしはそのように読んだ」との言葉を補うなどしました。

 桜庭さんの指摘は文芸批評のあり方や、フィクションと実在のモデルとの関係など、さまざまな論点にかかわる問いかけでもありました。今後、文学についての前向きな議論が広がることを期待しています。(文化くらし報道部次長 柏崎歓)…

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