虐殺された朝鮮人ら追悼、熊谷・本庄・上里

佐藤純
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 100年前の関東大震災の直後に虐殺された朝鮮人らを追悼する行事が1日、事件があった埼玉県内各地であった。主催した自治体の首長らは、虐殺の事実を率直に認めて犠牲者を追悼し、悲劇を繰り返さないことを改めて誓った。

 本庄市が長峰墓地で開いた追悼式には、吉田信解市長や、県内の在日韓国・朝鮮人の団体の代表ら約90人が参列した。

 吉田市長は「痛恨の思いとともに犠牲者のみたまに心から追悼の誠を捧げる」としたうえで、「本庄の人々は深い悔恨の念をもって鎮魂の行事を継続し、犠牲者の無念の思いに心を寄せてきた」と語った。

 在日本大韓民国民団県地方本部の崔洛文(チェナンムン)団長は「民族的偏見を持つ心ない人たちの手によって、何の罪もない同胞が虐殺された。明らかに人災だった」。在日本朝鮮人総連合会県北部支部の河皓容(ハホヨン)委員長は「過ちを二度と繰り返さない誓いを犠牲者へ捧げなくてはならない」と訴えた。両氏とも、追悼を続けてきた市や関係者への感謝とともに、不幸な過去を教訓にして日本と南北朝鮮の未来につなげることへの期待をにじませた。

 上里町の山下博一町長は、町内の安盛寺での慰霊祭で、「暴徒化した一部住民が在日朝鮮人のかたがたに危害を加え、尊い命を奪うという極めて悲惨な事件だった」と振り返った。毎年9月1日を、悲劇を繰り返さないことを「心に期する日」と考えているという。

 熊谷市が市の斎場「メモリアル彩雲」で開いた追悼式は、昨年、一昨年に続き一般の参加をとりやめ、関係団体の代表ら14人が参列した。小林哲也市長は「流言を信じた心ない人たちによって、罪のない朝鮮人のかたがたが本市においても犠牲となられたことは、まことに悲惨であり残念。悲しい歴史を後世に語り継ぎ、再び過ちを犯さぬことを誓います」と追悼の言葉を述べた。(佐藤純)

     ◇

 政府の中央防災会議の専門調査会が2008年にまとめた報告書によると、関東大震災では、「朝鮮人が放火する」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったデマを背景に、住民の自警団や軍隊、警察が、朝鮮人のほか、中国人や日本人の社会主義者らが殺傷される事件が関東各地で起きた。

 県内の朝鮮人犠牲者の数ははっきりしないが、日朝協会県連合会の呼びかけでできた実行委員会が1987年に出した「かくされていた歴史」によると、最低でも193人。確認できなかったケースを含めると、223~240人にのぼるとしている。

 同書によると、県内での朝鮮人虐殺は、軍や警察ではなく、自警団などの民衆によって行われた。地震後、警察が朝鮮人を徒歩やトラックで群馬県方面に移送しようとしたところ、9月4~5日ごろに県北で相次いで民衆に襲われた。熊谷市で少なくとも57人、本庄市で88人、上里町で42人が犠牲になったとしている。

 熊谷署が震災の14年後の1937(昭和12)年にまとめた「熊谷警察署沿革ノ概要」に、9月4日に市内に集まった群衆について、「1万人以上に達し、日本刀、やり、その他の凶器を携帯するもの少なからず」との記述があり、異様な状況だったことがわかる。

 さいたま市見沼区寄居町でも朝鮮人が襲われた。

 「新編埼玉県史」や「埼玉県行政史」、「埼玉県警察史」は、「かくされていた歴史」などの文献や当時の新聞記事をもとに、殺害された朝鮮人の人数に言及しており、166~240人と幅がある。(佐藤純)

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