「侍」ヌートバーを産んだ球児の米国遠征 続くホストファミリーの縁

山下弘展

 第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に臨む野球日本代表「侍ジャパン」の陣容が26日、正式に決まった。母親が日本人で、代表入りが内定していた大リーグ・カージナルスのラーズ・ヌートバー(25)も侍の一員として名を連ねる。

 「榎田さんとこの子や。いやー、決まったときはびっくりしたなぁ」

 日本高校野球連盟の事務局長、理事を長く務めた田名部和裕顧問(76)は、声を弾ませる。

 「榎田さん」とはヌートバーの母、久美子さんのこと。ヌートバーと日本野球との縁は、2006年、高校日本代表が親善試合のために米国へ遠征した際、ヌートバー家が、一部の選手のホームステイを受け入れたことがきっかけだった。

 高校野球の海外遠征の歴史は長い。

 1955年、まだ海外旅行が自由化されていない時代に、代表チームが編成され、ハワイへと赴いた。選手の現地での宿泊はホームステイ。日系人の家庭に分かれて滞在し、日本とは違う生活様式を体験した。

 以降、ハワイとは代表チームを送りあう関係が続いた。59年に初めて米国本土へ遠征。69年にはブラジル、93年には欧州へ渡り、野球を通じた交流を深めた。

 米国本土への遠征が本格的に始まったのは、83年。そこでも、ハワイのときと同様、ホームステイ方式を踏襲した。当時スタッフとして同行していた田名部さんは苦笑交じりに振り返る。

 「最初の年は、米国人の家庭にホームステイしました。選手たちがホストファミリーと一緒に家に帰った後、1人だけ、なぜか役員の宿舎に戻ってきた。聞けば『何を話しているのかわからない』と。ホストファミリーは、『ご飯にするか、シャワーを浴びるか』と聞いただけだったみたいですが」

 次の米国遠征からは、言葉の壁をなるべく低くしつつ、かつ、現地の生活も選手たちに経験させるため、日本語を解する米国人、日系人、定住している日本人家庭を対象にホストファミリーを募るようになった。

 田名部さんによると、選手がスムーズにホストファミリーとの暮らしになじめるよう、なるべく同年代か、子どもがいる家庭にお願いしていたという。

 選手たちは遠征中、2、3人ずつに分かれてホストファミリーと一緒に暮らす。滞在中は「米国の高校生」として生活した。ホストファミリーと一緒に試合会場に集合。「家族」の声援を受けてプレーし、試合が終わると、ホストファミリーの「きょうだい」や、その友達と一緒にビーチバレーに興じたり、ホームパーティーで談笑したりした。

 米国での日系人の歴史を学ぶ時間もあった。試合の合間には、ロサンゼルスの中心部、リトルトーキョーにある全米日系人博物館を訪れ、海を渡って移民した1世たちの苦難、第2次世界大戦中の強制収容、日系人を中心に構成され、欧州の最前線で戦った442連隊などについての説明を受けた。

 そして帰国のときは、選手もホストファミリーも、涙した。

 ロサンゼルス在住の山下登美子さん(56)は、堂林翔太(現広島、中京大中京)、田中健二朗(現DeNA、常葉菊川)、熊代聖人(元西武、今治西)らを家族として迎えた。2006年は、ホストファミリーが足りなかったため、ヌートバー家に参加を呼びかけたという。

 「私たちにとっても、素晴らしい経験でした。いまも選手たちの日本での活躍の様子を楽しんだり、ホストファミリー同士の縁で集まったりします。今年のお正月もホストファミリー同士で、『佐藤君(由規、元ヤクルト、仙台育英)が結婚したのね』と話したところでした」

 そして、米国が「第2のふるさと」になる選手もいる。09年の全国高校選手権を制した中京大中京の三塁手で、法大や社会人野球のトヨタ自動車でも活躍した河合完治さん(31)は、高校日本代表の一員として渡米したときのホストファミリーといまも交流を続ける。

 「大学卒業を間近に控えたとき、ホストファミリーの家に帰りました。私の兄が米国に旅行したときも寄るくらいです。家族ぐるみというか、私にとって、米国の父と母なんです」

 高校野球の海外遠征は11年以降、親善からU18ワールドカップなど大会参加へと軸足を移した。宿泊先はホテルになり、米国の生活に直接触れる機会は減った。ヌートバーのような出会いは、もう起こりえないかもしれない。

 だからこそ、つないできた絆だけは、守りたい。

 山下さんは、呼びかける。

 「元球児たちが、家族を連れて米国へ『里帰り』してくれるのを、私たちは楽しみに待っています」(山下弘展)…

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