天理の火葬墓は石上麻呂の墓?参考館学芸員の新説、高松塚にも波及

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今井邦彦
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 奈良県天理市杣之内町で40年ほど前に見つかった杣之内火葬墓が、奈良時代初めの左大臣・石上麻呂(いそのかみのまろ)(640~717)の墓だという説を、天理大付属天理参考館の日野宏学芸員が打ち出した。石上麻呂は極彩色壁画が描かれた同県明日香村高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)の被葬者の有力候補でもあり、同古墳をめぐる議論にも影響しそうだ。

 杣之内火葬墓は1981年、グラウンドの建設に伴う発掘調査で発見された。直径約10メートル、深さ約1・5メートルの半円形の穴を掘ったあと、土を突き固めながら盛っていく版築(はんちく)という工法で埋め戻し、そこに再び方形の穴を掘って、火葬骨が入った長さ約68センチ、幅約45センチの木櫃(もくひつ)を収めてあった。副葬された中国製の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)(直径約12センチ)は704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものとみられる。

 火葬墓がある杣之内地区は、古墳時代から活躍した豪族・物部(もののべ)氏の拠点だった布留遺跡の南に隣接し、同氏の歴代の古墳が築かれた場所。物部氏は6世紀後半に蘇我氏聖徳太子と対立して敗れた後も存続し、7世紀末には石上氏に改姓して栄えた。日野さんは、貴重な中国鏡が副葬された杣之内火葬墓も、石上氏を率いたリーダーの墓である可能性が高いとみる。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、702年に持統天皇が天皇や皇族では初めて火葬され、以降は文武、元明、元正と天皇の火葬が続いた。元明天皇は721年に死去する直前、遺体は火葬し、別に墓を設けずにその場に埋葬するよう遺言しており、それ以後は官人らの火葬墓も、天皇に準じた作り方になったとみられる。

 日野さんは、別の場所で焼いた骨を埋葬した杣之内火葬墓は、元明天皇が没した721年より前、遣唐使が海獣葡萄鏡を持ち帰った704年より後に亡くなった人物の墓だと推定。その人物には、717年に官人では最高位の左大臣として死去した石上麻呂が最もふさわしいと結論づけた。

 一方、高松塚古墳にも唐から…

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