日米開戦、回避できた? 井上寿一さん「現実に立脚した想像力を」
80年前の1941(昭和16)年12月8日(現地時間は7日)、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった。戦端を開いたのは大日本帝国だったが、後に敗戦という結末を迎えることになる。開戦という選択肢は回避できなかったのか。現在の私たちが得られる教訓とは。日本政治外交史が専門で昭和の戦争をテーマにした著書も多い井上寿一・学習院大学教授に聞いた。
――日本はなぜ無謀な戦争に突き進んだのか。日米開戦は避けられたのではないか。後世の誰もが抱く疑問だと思います。外交史の研究者はどう考えているのでしょうか。
日本外交史研究は日米開戦史研究だったと言っても過言ではないほど、質量ともに膨大な知見が積み重ねられてきました。日米双方のさまざまな歴史資料をあらゆる観点から読み解き、おおかたの研究者が政治的立場を超えて「まず間違いないだろう」と合意できる「通説」が打ち立てられてきています。
例えば、米国のルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていたという「陰謀論」は否定されています。米軍は当時まだ軍事的な暗号解読ができておらず、日本側の艦隊は無線で連絡を取り合っていませんでした。何より、米軍が3千人超の戦死者と太平洋艦隊壊滅を容認するはずがありません。
外交史の立場から見ると日米開戦に至る過程にはいくつかの分岐点がありました。41年に至ってもなお開戦回避の道はあった、戦争回避の可能性はゼロではなかったというのが通説的な理解であり、多くの研究者が共有していると思います。何よりも日米間には、領土や植民地をめぐる争いなど戦争に訴えないと解決できない問題は存在しませんでした。
米国統治下のフィリピンは30年代には独立へと向かっていましたし、大英帝国とならともかく、アジアの植民地解放のために米国と戦争を始める必要はありませんでした。日中戦争が長期化しているからといって、欧州戦線への介入でさえ渋った米国が中国を支持して自国の兵士を積極的に送り込むことは考えにくい。日本から先に手を出さなければ米国との戦争は回避できたのです。
――1932年に現在の中国東北地方に満州国を成立させ、37年からの日中戦争に加えて、40年には現在のベトナム南部にあたる南部仏印(仏領インドシナ)進駐に踏み切った41年当時の日本は、国際的な孤立の度合いを強めていました。開戦に至る分岐点は具体的にはどこでしょうか。
インタビュー後半では、開戦に至るまでの世論やメディアの影響なども聞きます。
この年4月に米国のハル国務…