日本の美術には空がなかった? 目と心の変遷映す展覧会「空の発見」
青い空に白い雲。子供の絵でも定番の表現が、近世より前の日本美術にほとんど出てこないのはなぜか――。東京・渋谷区立松濤美術館の「空の発見」は、学芸員のそんな疑問から生まれた展覧会だ。
■見えてるのになぜ描かない?
京の洛中洛外を俯瞰(ふかん)する画面の大半を、金色の雲がもくもくと覆い隠している。松川龍椿(りゅうちん)「京都名所図屛風(びょうぶ)」(19世紀)のような金雲は、桃山時代以降の屛風や障壁画でよく見られる定型表現だ。
狩野探幽「富士山図」(1665年)では富士山の背景は余白とみなされ、禅僧・隠元隆琦(りゅうき)による賛が大きく入れられている。葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」(19世紀)で画面上端にひかれた青色は「一文字ぼかし」という浮世絵の手法で、そこに空があることを記号的に示す。同時代やそれ以前の西洋絵画の写実的な空と比べると、日本の空表現の異質さが際立つ。
ルネサンス以降の西洋絵画は、後に発明される写真のように、特定の視点から見える要素を余すところなく再現してきた。対して、重要なものだけを引き立たせて描くのが日本絵画の手法であり「むしろその方が人間の自然な認識に近い」と、本展企画者の平泉千枝学芸員。重要ではないと見なされた空白部分の処理方法に共通の解が存在しないぶん、金雲や一文字ぼかしといった高度に抽象化された多様な「空」の表現が生まれたと指摘する。
■写実の青空から緑の雲へ
だが、近世には西洋や中国経由で遠近法などの写実的な描法が持ち込まれ、日本美術でも次第に青空が描かれるようになる。江戸末期の庶民に流行した泥絵では、洋風画の影響のもと極端な遠近法が採り入れられ、しばしば画面の大部分を鮮やかな空が占める。西洋から輸入されたプルシアンブルーという合成顔料が普及したことも、青空の広がりに一役買った。
さらに、科学知識の向上も空を単なる空白から観察対象へと変えた。明治時代になると英国のコンスタブルやターナーに倣い、日本でも雲を科学的に観察して描こうとする画家たちが登場する。洋画家・武内鶴之助が英国留学中に描いたパステルの風景画群では、曇天や夕焼け雲などさまざまな雲の表情が克明に捉えられている。
一方、萬(よろず)鉄五郎の「雲のある自画像」(1912年)の緑とオレンジの雲は、もはや写実を逸脱した現実にはありえないイメージだ。岸田劉生の極端に青が濃い平面的な空、シュールレアリスム絵画に描かれるダブルイメージを含む空など、20世紀以降の空は画家の心象や主観が自由に投影される場所になっていく。
■悲劇の時に見上げる空
地上に生きる人が最も空を見上げ、心を託したくなるのはどんな時か。それは、大災害や戦争といった「カタストロフの時」なのだと平泉さんは言う。
関東大震災直後の東京を描いた池田遙邨(ようそん)「災禍の跡」(1924年)では、ぐっと引き下げられた地平線の上に、建物が焼けて遮る物のなくなった夜空が広がっている。フランス帰りの中村研一は第2次世界大戦下で戦争画家となり、印象派風の美しい色彩で「北九州上空野辺軍曹機の体当り B29二機を撃墜す」(1945年)を描いた。香月泰男「青の太陽」(1969年)は、旧満州での軍事訓練中に地面に蟻(あり)の巣穴を見つけ、「蟻になって穴の底から青空だけを見ていたい」と思った経験を元に描かれたものだ。
対照的に、現代の画家・阪本トクロウは自らの内面を表現しないための手段として「中空」としての空を描く。「ディスカバー」(2005年)で画面手前に描かれる電信柱は絵画の主役というより、背後に広がる茫漠(ぼうばく)とした空白を強調するための装置にすぎない。
■描かなくても感じていたかも
美術家のAKI INOMATAはコロナ禍をきっかけに、前日の空模様を液体で再現するプロジェクトを継続中だ。今回は同じ手法を使い、昭和初期に私財を投じて雲の観測所を設立した研究者・阿部正直へのオマージュ作品「あの日の空を覚えている」(2024年)を制作した。阿部が撮影した100年前の雲をグラスの水中に3Dプリントで再現し、自ら飲み干す映像などで構成。あえて存在を消してしまうことによって「自分の中に強く感じられたり、それと一体になったりできればいい」とINOMATAさん。その行為は、「見る」ことを偏重してきた美術史への抵抗でもあるのだという。
かつて日本美術では空は主たるモチーフにならなかった一方、文学では空にまつわる多様な表現が残る。「昔の日本人も、絵画に描くのとは別の方法で空を感じていた可能性はあると思う。あえて残さないという視点もあるのでは」とINOMATAさんは話す。
▽「空の発見」展は11月10日まで(10月16日から後期展示。一部展示替えあり)。月曜(祝休日の場合は翌日)休館。