武田啓亮

デジタル企画報道部 | withnews
専門・関心分野歴史、戦争と平和、教育、サブカルチャー

現在の仕事・担当

朝日新聞が運営するウェブメディアwithnewsを担当しています。新聞を読んだことが無い人に、ニュースを届けるにはどうしたらよいか。そんな課題意識のもと、身近な話題を取材しています。

バックグラウンド

雪がほとんど降らない千葉県で生まれ育ち、雪国新潟・札幌で記者生活をスタートしました。東京の社会部で教育や、戦争と平和などについて取材をしていました。学生時代は社会学を専攻。「鳥の目と虫の目」という二つの視点は、記者の仕事にも通じるものがある分野だと思います。

仕事で大切にしていること

差別や貧困、戦争といった歴史から何を学び、記者としてどう行動すべきかを考えています。軍部の圧力や不買運動に屈して筆を曲げてしまった事への反省が、戦後の朝日新聞の出発点でした。暮らしの中にある、身近な不条理や理不尽に敏感な記者でありたいと思っています。

タイムライン

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レリーフが語る日米2人の兵士の物語 弾薬庫だった「こどもの国」

 横浜市から東京都町田市にかけて広がる「こどもの国」は子連れのお出かけスポットとして人気だ。約100ヘクタールの広大な園内には、遊具や牧場、野外炊事場などがある。記者(32)も子どもの頃、訪れたことがある。この遊び場に戦跡があると知ったのは、記者として戦争や平和について取材するようになってからだ。この夏、再訪した。 ■水遊び場そばの謎の扉  最高気温が34度近くまで上がった8月2日、プールや水遊び場の近くでは、子どもたちのにぎやかな歓声が上がっていた。  水遊び場を右手にみながら坂道を登っていくと、左手に丘のように盛り上がった場所がある。削られた斜面には20~30メートルおきに灰色っぽい鉄の扉。このような丘と鉄扉は園内のいたるところに点在していた。  扉は固く閉ざされ、一般の来園者は入ることはできない。丘を登ると、草木が生い茂る場所にコンクリートの柱のようなものもある。  「こどもの国」のホームページを見ると、「こどもの国」がある場所は戦時中、日本陸軍が砲弾の組み立てや弾薬の保管場所に使っていたところだった。閉ざされた鉄扉の奥にあるのは弾薬庫に通じる横穴だ。そして、柱のようなものは換気塔だった。弾薬庫は計33基作られ、野戦砲の弾や手榴弾(しゅりゅうだん)、地雷などを製造していたという。  冊子「こどもの国歴史ガイド」によると、弾薬の製造や管理には、若い学生も動員されていた。作業中の事故で犠牲者も出ている。戦後は米軍に接収され、引き続き弾薬庫として利用されていたという。 ■「無名戦士」の逸話  ある弾薬庫跡の前で1枚のレリーフを見つけた。描かれていたのは倒れた米兵と、それを見つめる日本兵だ。互いに、人さし指、中指、薬指の3本を立てて額にかざしている。ボーイスカウト式の敬礼だ。  ボーイスカウト日本連盟(東京)によると、第2次世界大戦中、激戦が続く南洋諸島であった逸話が元になっているそうだ。  ある島で重傷を負った米兵が倒れていると、日本兵が通りかかった。米兵は「殺される」と思った瞬間、気を失ってしまう。気がつくと、日本兵はもうおらず、傍らに紙切れが落ちていた。  一命を取り留めた米兵は後日、拾っておいたその紙切れを読んだ。こう書いてあったという。  「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。傷には包帯をしておいたよ。グッドラック」  同連盟によると、この話は、米兵から米国のボーイスカウト連盟に伝わり、現地の新聞などでも取り上げられて反響を呼んだ。 ■返還ノー、から一転  なぜ、このレリーフが「こどもの国」にあるのか。  戦後、この場所に子ども向け施設を作る計画が持ち上がったが、米国側は土地の返還に難色を示していた。そんな中、厚生省(当時)中央児童厚生施設特別委員会の委員長、故・久留島秀三郎氏が、米軍に返還を直談判した。ボーイスカウト出身の米軍司令官が、久留島氏がボーイスカウト日本連盟の理事長だと知ると、話が盛り上がり、前向きな感触を得られたという。この会談から2週間後、米国側から「返還する」と回答があった。  1965年、「こどもの国」は開園した。翌66年、ボーイスカウト関係者らの寄付金でレリーフは作られた。ボーイスカウト日本連盟の広報担当者は語る。  「ボーイスカウトで教わる価値観の一つに『国際愛と人道主義』があります。国同士が争う戦争の愚かさと、敵味方を超えた個人の友情の尊さを子どもたちに伝えたいと、無名戦士の話は、今でも大切に語り継がれています」  今年で開園59年になる「こどもの国」。かつて弾薬庫だった園内には、「平和を祈る」と記された小さな石碑がいまも立ち、子どもの声が響いている。

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被災のガラス美術館、免震台などで揺れ対策 ただ、素直には喜べず…

 石川県七尾市の七尾湾に「石川県能登島ガラス美術館」は浮かぶ。繊細なガラス工芸品を約500点収めているが、能登半島地震で壊れた作品は23点にとどまった。被害が最小限に抑えられたことに希望をつなぎ、担当者らは営業再開を模索している。  「横に1本、線が入っているのが見えますか?」。学芸員の小山ちえみさんが指さした先に目をやると、館の内壁を一周するひび割れが見えた。地震で出来たものだという。エレベーターも故障し、断水で空調は使えず、休館が続く。  作品は壊滅的な被害を受けているかもしれない――。小山さんは覚悟したが、施設の損壊具合に比べれば、限定的だった。修復できないものは7点、可能性のあるものが16点。「2007年の地震の被害で対策を見直した効果があったのかも」と推測する。  一つが作品を載せる免震台の導入だ。前後左右に動いて力を逃がすことで作品自体の揺れを抑える。阪神・淡路大震災クラスの揺れにも耐えうるという。収蔵庫の棚には、手前に木の板を打ち付けて作品が落下しないようにしていた。今回、収蔵庫での被害は確認されていないという。  ただ、小山さんは「素直に喜べない」とも言う。壊れた作品の中には作家がすでに死亡し、修復できないものがある。免震台も1台30万~50万円するといい、現有の36台から増やすのは難しい。建物そのものが築30年超と古いのも課題だ。  いまは状態が不安定な作品の展示を控えつつ、営業の再開を模索している。小山さんは「この世に一つしか無い作品が失われてしまったのは悲しいが、ガラス工芸を専門に扱う公立美術館は少ない。作品を守りながら、来館者に作品の魅力を届けたい」。

被災のガラス美術館、免震台などで揺れ対策 ただ、素直には喜べず…

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「おせち食べないで」父に言ったあの朝 倒れた家から運び出した重箱

 「雨でダメになる前に、少しでも運びださないと」  1月29日の午後。能登半島地震で被災した石川県輪島市山岸町の土中美紀(みのり)さん(47)は、1階部分がほとんど潰れてしまった自宅で、思い出の品々を捜していた。家族の写真を収めたアルバムや、食器類などが出てきた。  台所周辺を捜していた美紀さんが何かを手に取り、声を上げた。  「あかん、泣きそうや」  手にしていたのは泥で汚れ、少し傷が付いたお重だった。  お重を見つめ、つぶやく。「あの日、あんなことを言わなければよかった」  1月1日朝、美紀さんは仕事のために家を出た。夜には、同居する父・健一郎さん(74)と、東京から帰省する娘の優希さん(24)の3人で正月を祝うはずだった。  「今日は優希が帰ってくるから、おせちはまだ食べんといてや」  父にそう呼びかけてから出勤した。それが最後の言葉になるとは、つゆほども思わなかった。  父は、国鉄、JR、再就職後はのと鉄道と勤め上げた鉄道マンだった。  単身赴任も多かったが、美紀さんには、寂しい思いをした記憶は無い。「週末には必ず家に帰ってきたんです。家族思いの優しい父でした」  家では仕事の話はほとんどせず、保線を担当していたことしか知らない。でも一度だけ、父としての顔と鉄道マンとしての顔の両方を同時に見た時があった。  2007年の能登半島地震の時だ。  発生直後に職場から自宅に戻り「みんな大丈夫か」。家族の無事を確認すると「線路を守らにゃいかん」とすぐさま職場へとって返した。  10年前、病気のために62歳で他界した母・順子さんが「もういったんか。何しに帰ってきたのか」となかば驚き、なかばあきれたような表情をしたのを覚えている。  退職後は「男の料理教室」に通い、ほとんどしたことがなかった料理に挑戦した。  美紀さんの帰りが遅い日には、いつも父の「とり野菜鍋」が食卓に並んだ。鶏肉と白菜をみそ仕立てにした石川県の家庭料理だ。  「もう飽きたよ」。優希さんが家にいた頃には、娘の愚痴を聞きながら、3人で鍋を囲むのが楽しみだった。  父はひょうひょうとしたところもあった。美紀さんが夕飯のおかずにするはずだった総菜で、一足先に一杯。  つまみ食いで済めば良い方で、一品丸々無くなっていることもしばしば。  「食べちゃったの?」。ごめん、と謝りながらも、ニヤリと笑う父の顔が記憶に残る。  地震が起きた時、美紀さんは同県穴水町の職場にいた。道路の寸断で自宅に戻ることが出来ず、翌朝、同僚たちと同県羽咋(はくい)市のホテルに避難した。  電話が徐々に通じるようになり、同僚たちが家族の無事を確認する中、健一郎さんとは連絡がつかないままだった。  「美紀ちゃん。お父さん見つかったけど、ダメやったわ」  夕方、近所に住む幼なじみからの連絡で父の死を知った。死因は「圧死」だった。  翌日の深夜。輪島市内の遺体安置所で父と再会した。まるで眠っているような表情だった。  「苦しまなかったのなら、よかった」  同時に、後悔もした。  「『おせちを食べるな』なんて、言わなければよかった」  甘辛く味付けしたブリがはいったなますが父の好物で、今年のおせちにも入れていた。  「最後にせめて一口、食べて欲しかった。食べさせてあげたかった」  地震の日の朝、父にかけた、なにげない一言を悔いた。  けれど同時に、父が別れ際に見せた表情を思い出す。ニヤリと、いたずらっぽく笑っていたような気がする。  「父の性格を考えると、こっそりつまみ食いしていたかも。そうだったらいいなあ」  3段あったお重のうち、1段はどうしても見つからなかった。父と娘と3人で暮らした家から、父がいなくなってしまった現実と重なる。  「こんなことってあるんやね。お父さんが持っていったんかな」。2段になったお重を手に、美紀さんは話す。  「来年のお正月にも、おせちを作ります。そうしたら父もきっと、喜んでくれると思うから」

「おせち食べないで」父に言ったあの朝 倒れた家から運び出した重箱
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