若松真平

編集委員
専門・関心分野くらし

現在の仕事・担当

朝日新聞デジタルの連載「いつも、どこかで」の記事を取材・執筆して毎週日曜に配信しています。登録していただいた読者の方には毎週水曜に ニュースレターをお届けします。また、朝日新聞社が運営するWEBサイト「withnews」でも、2014年の立ち上げ時から記事を書いています。

バックグランド

記者として働き始めて5年目、紙面編集の部署に異動しました。「もう記事を書けないのか」と落ち込みましたが、同僚記者が書いた記事を読み込んで見出しをつけることで、たくさんの気づきがありました。デジタル版の編集者として働きながら再び記事を書くようになり、記者と編集者の両方の視点を大切にするようになりました。異動当時、上司に言われた「塞翁が馬」という言葉の意味を身をもって知りました。

仕事で大切にしていること

何げない日々の中で起こった出来事や、その時の思いについて取材させていただくことが多いです。記事を読んだ方が「その気持ち、わかる」と感じていただけるように取材を尽くします。読み終えて「明日もがんばろう」と思っていただけたらありがたいです。

著作

タイムライン

記事を書きました

午前3時に聞こえた「音」 暗くて長い夜、孤独な母親を救ってくれた

 9歳と7歳の男の子を育てているシングルマザーの「たーたん」さん(35)。  出かける時、カバンの中に入れて持ち歩くものがある。  知り合いのハンドメイド作家が作ってくれたペンケースに、コピックのカラーマーカー、マルマンのスケッチブック。  時間を見つけては、子育て中に気づいたことをイラストにして撮影し、インスタグラムに投稿するためだ。  描き始めたのは、長男を産んでしばらく経ったころ。  始めるにあたって、どうしてもコピックの24色セットが欲しかった。  経済的にそれほど余裕はなく、買うのは子ども用品ばかり。  久しぶりに自分のための買い物をするに当たって、夫にこう宣言した。  「1年でインスタのフォロワーを1万人にするからお願い」  約束通りに1年で達成し、これまでに投稿したイラストの数は700を超えている。 ■ある「音」を聞いて9年前を思い出した  次男を産んでまもなくして夫と離婚。  今は作業療法士として働きながら、子ども2人と一緒に徳島県内で暮らしている。  今年6月中旬、午前3時ごろに目が覚めてトイレに立った。  その時、ある「音」を聞いて、9年前のことを思い出した。  朝起きた時に忘れないよう、スマホにメモを残す。  翌日、メモを元にしながら、6コマのイラストとして描き上げた。  1コマ目は、こんな文章から始まっている。  「長男は、本当に寝ない赤ちゃんだった。私も一緒に朝までよく泣いていた」  3歳になるまで、夜通し寝ることがなかった長男。  夜中に何度も起こされ、抱っこしても、トントンしても寝てくれない。  出産2カ月前に夫の父が急死し、我が子の誕生を手放しで喜べない中での子育て。  産後に無痛性甲状腺炎と診断され、動悸(どうき)や息切れなどの不調も重なった。  深夜、真っ暗な部屋に我が子と2人きりでいて「社会から切り離されてる」と感じていた。  そんな時、外から聞こえてきたのが「ブロロロ~」という音だった。  時刻は午前3時すぎ、新聞配達のバイクの音だ。  ブロロロ~を聞きながら、こんなことを思った。  「会ったこともない人だけど、この暗い時間にも頑張ってる人がいる。私だけじゃないんだ」  きっと1時くらいには起きて、チラシを折り込んで準備してるんだろうな。  うちに回ってくるまでに山間部の配達は終えたのかな? まだ全体の半分くらいかな?  あれこれと想像しているうちに、「ありがとう」という言葉が浮かんできた。  こんな時間から新聞を届けてくれて、ありがとう。  いや、今取り換えているこの赤ちゃんの紙おむつだって、発明してくれた人にありがとうと言いたい。  今日みたいな寒い日に暖房が利いてることも、電気を届けてくれる人にありがとうだ。  社会から隔絶されたように思っていたけれど、自分が気づいていないだけだった。  「私は1人じゃない。たくさんのありがとうが支えてくれているんだ」 ■同じ思いの人たちが  描き上げたイラストを投稿すると、多くのコメントやダイレクトメッセージが寄せられた。  「あのときの気持ちを思い出して、胸がぎゅーっとなりました」  「ものすごい分かります。新聞屋さんの配達の音にどれだけ救われたか」  「僕も引きこもっていた時に、あの音に救われました」  同じように思っていた人がこんなにいたんだ、と驚いた。  「自分が泣いてきた時間で誰かを癒やしたり、背中を押したりできるんだ」  そう実感し、描き続けてきてよかったと思えた。  もともと、誰かのためではなく、自分の気持ちを整理するために描いてきたイラスト。  頭の中でグルグル回り続ける考えや気持ちを「消化」して「昇華」させる作業だった。  インスタに投稿を始めて人とつながるうちに、多くの人がそれぞれの立場で苦しみを抱えていることを知った。  「そんな人たちに寄り添える絵や言葉を描きたい」と考えるようになり、描く世界が広がったように思う。  アドバイスなんておこがましいから、あくまで自分の経験や思いを描くように心がけている。 ■20冊を超えたスケッチブック  描きためたスケッチブックは、すでに20冊を超えた。  いずれも部屋に置いてあり、息子たちには「いつでも見ていいよ」と伝えている。  ページをめくる息子たちに、母の思いは伝わっているだろうか。  親は万能じゃない。苦しむ時もあれば、迷うときもあるんだよ。  私が離婚という道を選んだせいで、つらい思いをさせてごめんね。  でも、お父さんはあなたたちを愛してくれたし、いろんな人に愛されて今があるんだよ。  伝えたいことは、スケッチブックにたくさん詰め込んである。  どんどん冊数を重ねる中、「書いてほしくなかったら、ちゃんと言ってね」と伝えている。  今のところは「顔が似てないからいいよ」と2人とも言ってくれる。  でも、そう遠くない未来に、子どもたちのことを描けなくなる日が来るだろう。  その時は「私の物語」として描き続けていきたい。  自分にとっての新しいパートナーや、息子たちのパートナー、孫たちも登場するかもしれない。  「変わることも、また幸せなんだよなぁ」  そんなことを思いながら、いつの日かスケッチブックを読み返す日のことを想像した。

7日前
午前3時に聞こえた「音」 暗くて長い夜、孤独な母親を救ってくれた

記事を書きました

18歳で逝った娘の願い、三つも叶った スマホに残されていた手紙

 2020年12月20日、坂野春香さんが18歳で亡くなった。  11歳のときに脳腫瘍(しゅよう)が見つかって手術。  17歳で再発し、2度目の手術を受けて闘病生活を続けていた。  再発がわかったころ、春香さんは父の貴宏さん(53)に、こんなことを頼んできた。  「私のありのままを全て記録してほしい」  娘の願いを受け、貴宏さんは日記をつけることにした。  19年9月から亡くなるまでの約1年3カ月の記録は、今もパソコンの中に残っている。  最後に更新されたファイルは、亡くなった日の夜に書き上げたもので、こう記されている。     ◇  18時37分。春香が永眠いたしました。  この記録も、ここまでです。  春香の願いである春香の生きた証(あかし)をここまで書いてきました。  筆者である私もまだ実感が湧いていません。  本日、葬儀屋さんと打ち合わせがあり、通夜、葬儀、火葬と続き、最後はお骨になってこの部屋に帰ってくる予定です。  これを書いている時間、春香はこれまで病気と闘ってきた寝室で、妻と(姉の)京香と最後の夜をともに過ごしています。  家族4人で行った旅行では当たり前だったこの光景も、これが最後になってしまいました。  春香は、この文章を読むことができませんが、皆様に読んでもらって、春香を忘れないようにしてもらえたら幸いです。  春香は、「人の役に立ちたい」と病床の枕元でつぶやいておりました。  ぜひとも、春香を心の中で思い出してください。  それが最高の春香の供養になると思います。  この日記は、春香との約束で、春香の記録をつけることを目的としていますので、私はここで筆を擱(お)くこととします。 ■「10年生存率は0%」  小学6年生だった13年10月、春香さんが頭痛を訴えた。  痛みが治まればケロッとして学校に行ったが、頻繁に繰り返したので病院を受診。  「自律神経の乱れ」と診断されたが、症状が治まらなかったため、2日後には別の病院へ。  「片頭痛」と診断された日の夜、激しい頭痛に襲われて嘔吐(おうと)し、「目が見えない」と叫びだした。  救急車で運ばれた病院でCT検査をすると、左頭頂葉に6センチの腫瘍が見つかった。  すぐに入院し、取り除く手術を受けることに。  術後、医師から「スーッときれいに取れました」と言われ、母の和歌子さん(51)は安心した。  しかし、病理検査の結果は、極めて厳しい内容だった。  脳腫瘍の中でも悪性度の高い膠芽腫(こうがしゅ)で、10年生存率は「0%」だという。  2カ月に及ぶ放射線治療と化学療法を終え、自宅での服薬治療に移行。  頭痛や右手のしびれなどはあったが、中学校では修学旅行にも行き、高校は特進クラスに入った。  学校生活を送る娘を見て、貴宏さんはこう思っていた。  「0%は2013年時点の話。医学も進歩しているんだから大丈夫。突破できる」  しかし6年後、高校3年生の時に医師から再発を告げられた。 ■覚悟して臨んだ2度目の手術  2度目の手術は「覚醒下手術」を行うことに。  頭蓋骨(ずがいこつ)を開けた状態で麻酔から覚まし、言葉をかけながら腫瘍を取るという手術だ。  手術を受ける前日、春香さんは父母と一緒に医師から説明を受けた。  脳機能を温存しながらできる限り腫瘍を取り除くが、言語障害や麻痺(まひ)などの後遺症が残る可能性がある。  本人と家族はどんな機能を優先的に残したいと考えているか、を尋ねられた。  父と母が「言語機能だけは残して」と伝える中、春香さんはこう言った。  「私は生きたいので、障害が残っても、腫瘍を全部取ってほしい」  大好きだった絵が描けなくなるかもしれないし、話せなくなるかもしれない。  それでも、生きることを選びたい。  娘の覚悟を感じた貴宏さんは「何があっても支えていこう」と決めた。  その日の夜、春香さんは自分のスマホにこんなメモを残していた。     ◇  パパ、ママ、京香へ  私という自我が死んでしまったかもしれないので手紙を残すことにしました。  パパ、ママ、この世に存在させてくれてありがとう。  うっちゃん(京香さんの愛称)、いつも味方をしてくれてありがとう。  17年間つらい時期もあったけど4人でいると楽しいことでいっぱいでした。  心から家族が大好きです。  不幸とは幸せだと気づかないこと、  敗北を認め大いに楽しむこと、  どんなところにも美しいものはある、  それこそが運命、  私が人生において大切にしている言葉です。  なので、正直怖くはありません。  たとえ私が変わってしまっても「家族は一つ」だしね。  春香 2019年10月17日 ■退院後に異変が  覚醒下手術は無事に成功。  言語機能はそれほど損なわれなかったが、右半身に麻痺が残り、障害者手帳を取得した。  翌20年は、世間がコロナ禍に見舞われていた時期。  教師として働く貴宏さんの学校も休校となり、一緒に過ごす時間が増えたことがありがたかった。  その年の夏、春香さんに異変が生じ始める。  突然涙を流したり、家族の冗談に対して過剰に反応して怒ったり。  貴宏さんの9月11日の日記には、こんな記述がある。  「(病院で)車から降りるとエレベーターに乗り、3階建ての駐車場の屋上に行き、身を乗り出そうとしました」  翌日未明には、近くの道路で仰向けに倒れている状態で発見され、救急隊員に保護される出来事があった。  貴宏さんの日記には、春香さんから聞き取った内容が記されている。  「春香は、絵を描くのが楽しくなくなってしまったこと、楽しみがなくなったことによって生きる意味がなくなったこと、それなら、早く死にたいことなどを話してくれました」  発作的に自傷行為を行ってしまうが、落ち着くといつもの娘に戻り、荒れた時の記憶も残っている。  医師の診断は「症候性てんかんと精神症状をともなう発作」で、脳の腫瘍が原因だという。  包丁を探したり、床に頭を打ち付けたり。時には家族に危害を加えようとすることもあった。  それでも、落ち着きを取り戻すと、何度も何度も家族に謝った。  「本当は死にたくないし、生きたい。どうしてあんなことをしたんだろう。本当にごめんなさい」 ■なぜ、ありのままの記録を求めたのか  春香さんからの「私のありのままを全て記録してほしい」という願いを受けて、書き始めた日記。  亡くなる10日前までの分については、春香さんが毎日チェックし、修正点を指摘した。  貴宏さんは当初、病院で飛び降りようとしたことも、道路で倒れていたことも書いていなかった。  それを読んだ春香さんは「ちゃんと書いて」と追記を求めた。  なぜ、隠さずありのままを記録するように求めたのか。  本人に直接尋ねたことはないが、二つの理由があったのだと思う。  一つは、自分の生きた証しをそのまま残してほしかったから。  そしてもう一つが、膠芽腫と闘っている人やその家族に「道しるべ」を残したかったから。  どんな症状で、どんなことが起こり、家族はどう対処したのか。  そのすべてを役立ててほしかったのではないか、と貴宏さんは思っている。 ■春香さんが描いた「×くん」  11月18日、再び腫瘍が確認され、医師から余命について言及があった。  「春先までと考えてください」  医師の見立てよりも早く、半月後には自分で体を動かせなくなった。  そうなる前に、春香さんが描いたのが「×(バツ)くん」だ。  間違いにバツをつけることが仕事の×くん。  一生懸命働いているのに、人間からは「バツなんて、なくなってくれればいいのに」と疎まれる。  「僕はいない方がいいのかな」と悩んでいた時、子どもから声をかけられる。  「あ、間違えた。でもバツは成功のもと。×くん、ありがとう」  その言葉を聞いて、×くんは自分の仕事に価値を見いだす――という物語だ。  「春香の意識があるうちに本にして渡したい」  そう思った貴宏さんは、製本してすぐに届けてくれる会社をネットで探した。  ハードカバーではなく冊子形式だが、最小単位の5冊を注文すると数日で届く、というところを見つけた。  4日後に到着した時、春香さんは会話は難しい状態だったが、本と一緒に写真を撮影。  どことなく照れくさそうな表情で、目元が笑っているように見えた。  本が届いた13日後、春香さんは亡くなった。  息を引き取る直前、コロナ禍で面会が1人に制限される中、和歌子さんが病室に入った。  録音しておいた貴宏さんと京香さんのメッセージを流した後、和歌子さんは感謝の言葉を伝えた。  闘病中、春香さんが和歌子さんにかけてくれた言葉。  2人だけがわかるその言葉を、そのまま返すようにして枕元でつぶやいた。  18時37分、眠るようにして息を引き取った。 ■亡くなった後にかなった願い  病床で何度も「人の役に立ちたい」「人の心に何かを刻みたい」と言っていた春香さん。  その願いは、亡くなった後に三つの形でかなえられた。  その一つが、和歌子さんと貴宏さんの共著「春の香り」(文芸社)の出版だ。  きっかけは、和歌子さんが新聞で見つけた文芸社主催の賞への応募。  テーマが「家族の歴史」だったので、春香さんと過ごした時間を残したくて、筆を執った。  それを見ていた貴宏さんも「書きためた日記をもとに自分も応募しよう」と、別々に投稿。  いずれも受賞はならなかったが、出版社から「一緒に春香さんの願いをかなえてあげましょうよ」と声がかかった。  22年8月、2人の手記をまとめる形で本が出版された。  表紙に使われているのは、春香さんが描いた作品「美しいひと」。  2度目の手術を受ける前に、麻痺した右手に代えて、左手の指に絵の具を直接つけて描いたものだ。  淡く優しいタッチで描かれた、遠くを見つめる女性。  春香さんの「生きていくんだ」という覚悟が伝わってくる絵だ。     ◇  もう一つが、「春の香り」の映画化だ。  本が出版された後、春香さんのことを多くの人に知ってもらいたくて、貴宏さんは慣れないSNSに挑戦。  約3カ月後、フェイスブックに「映画にしませんか?」とプロデューサーからメッセージが届いた。  今年4月にクランクインし、春香さんが暮らした愛知県江南市を舞台に撮影。  来春の公開に向けて制作が進んでいる。     ◇  そして最後の一つが、絵本「×くん」(三恵社)の出版だ。  家族向けの5冊だけだった本が、一回り大きなハードカバーの絵本として世に出ることになった。  「春の香り」を読んだ人が、三恵社の編集者を紹介してくれて実現した。  出来上がった本を手にした時、貴宏さんは表紙の「ぶん・え 坂野春香」という文字を見て、泣いてしまった。  「春香、ついに絵本作家になったんだね」と。  脳腫瘍になってバツをつけられた自分も、誰かの役に立てる。  どんな人にも存在価値はあるんだから、自分らしく生きていいんだよ。  読み返すたびに、そんなメッセージが伝わってくる。  書籍化、映画化、絵本の出版と、どれも信じられない出来事ばかりだ。  きっと春香の強い意思が、すべてをつなげてくれたのだと思う。  自ら描いた「美しいひと」のように、じっと未来を見つめて生き抜いた強さが。

18歳で逝った娘の願い、三つも叶った スマホに残されていた手紙
有料会員登録でもっと便利に  記者をフォローしてニュースを身近に