藤えりか

朝デジ事業センター 戦略部 次長 | 記者サロンなど
専門・関心分野SNS、戦争被害、難民、労働、ハリウッド

現在の仕事・担当

記者サロンやコメントプラスなどの担当デスクをしています。

バックグラウンド

京都出身。1993年入社。水戸支局、北海道報道部(札幌)、学芸部、東京・名古屋の経済部、ジャーナリスト学校主任研究員、国際報道部、ロサンゼルス支局、GLOBE編集部、be編集部、再びの経済部、デジタル企画報道部を経て現職。イベントや音声を通じた発信にもかねて取り組み、映画を通して世界情勢について読者と語り合う「シネマニア・サロン」を続けた経験をもとに「記者サロン」を企画・提案し、創設。米ジャーナリズム教育・研究機関「ポインター研究所」で学んだことも。米MBA取得。世界組織「ベータ・ガンマ・シグマ(BGS)」の終身会員。週イチのピラティスと、ガーシュインの楽曲が元気の源です。

仕事で大切にしていること

話を聞く。足を運ぶ。疑問点は臆せず質問する。予断を取り払って臨む。誰もが意見を言いやすい場を作り、仲間を支え背中を押す――。反省点は多々ありますが、だからこそそうありたいと、書き手としてもデスクとしても考えています。取材記者約30年の経験を生かしながら、報道機関がチームとしての力を発揮する一助となるべく、仕事の傍ら米MBAをオンラインで取得、現場で実践に努めています。

著作

  • 『海を渡った「ナパーム弾の少女」 戦争と難民の世紀を乗り越えて』(岩波ブックレット、2023年)
  • 『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』(講談社、2022年)
  • 『なぜメリル・ストリープはトランプに噛みつき、オリバー・ストーンは期待するのか ハリウッドからアメリカが見える』(幻冬舎新書、2017年)

論文・論考

  • 『〔座談会〕誹謗中傷問題の現状と侮辱罪改正の課題 ー 特集/侮辱における法の役割――侮辱罪改正を契機に』(有斐閣「ジュリスト」2022年7月号/1573号)

タイムライン

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読者参加の試み、世界のメディアで深化 報道の信頼築くため苦闘

■メディア空間考 藤えりか  記者によるイベント「記者サロン」の一環で、「Re:Ronカフェ」を開催した7月下旬のことだ。朝日新聞東京本社の会場に集まった参加者の中に、前回2月の開催時にも参加した男性の姿があった。「また来てくださったんですね」と声をかけると、「そうなんです。前回楽しかったので、また来ました」と笑顔で返してくれた。  朝日新聞だけでなく、世界中のメディアがここ数年、記者発のイベントにこぞって力を入れている。まさにこの男性のような反応を期待してのことだ。  朝日新聞の記者サロンは2020年春に始まったが、淵源(えんげん)は16年夏からの取り組みにさかのぼる。  私が当時所属していたGLOBE編集部で、デジタル版の連載を始めた際、宅配で届き一覧性もある紙面と違い、ネットで目に留めてもらう難しさを実感していた。SNSは当時すでに誹謗(ひぼう)中傷が深刻で、若い人を中心に積極発信を控える傾向も見て取れて、限界を感じていた。そこへ米メディアの知人からもたらされた助言が「読者とつながり議論の場にもなるイベントの立ち上げ」だった。  先行してデジタル化の波にもまれた米メディアでは、無料ニュースの氾濫(はんらん)や止まらぬ購読者の減少を前に、それまでの情報発信が一方通行になりがちだった反省も踏まえ、対話型の読者コミュニティーを作って信頼関係を築こうという議論が10年代には盛んだった。その解の一つとしてのイベントを多くの米紙が始めていた。米国出張時に米大手紙の支局を訪れた10年、記者が出稿後に読者に取材について語る動画のスタジオがあったのも思い出した。  それらをヒントに16年に手探りで、映画を通して世界情勢を語り合うシネマニア・サロンを始めた。取材の裏話などを話し、参加者の質問や要望、日頃の問題意識に耳を傾け、議論も促すようにするうち、「普段しづらい話ができてよかった」と常連さんが増え、デジタル版を有料購読する人も出てきた。この取り組みを広げようと、経済部時代の19年に同僚記者と勉強会を重ね、記者サロンと名づけて走り出し、専門の部署も発足した。  読者を巻き込む取り組みは、欧州では報道プロセスへの読者参加にも発展し、国際新聞編集者協会(IPI)などによる助成制度も始まっている。読者の方々がメディアに何を求めているか――。私たちの試行錯誤も続く。      ◇ とう・えりか 朝デジ事業センター戦略部次長(記者サロンなどの担当デスク)。8月まで言論サイト「Re:Ron」編集部記者。第1回「Re:Ronカフェ」企画・進行も。

5日前
読者参加の試み、世界のメディアで深化 報道の信頼築くため苦闘

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香港から日本移住、民主活動家が寄稿に込めた思い リロン編集部から

 香港の民主活動家で元区議の葉錦龍(サム・イップ)さん(37)=写真=に初めて会ったのは2018年12月のことだ。14年の雨傘運動を振り返る東京・渋谷でのトークイベントに周庭(アグネス・チョウ)さん(27)らと登壇していた。  「催涙弾をたくさん食らい、死んじゃってもおかしくない状況でした」。間一髪の経験を葉さんは流暢(りゅうちょう)な日本語で軽やかに語った。「どこで日本語を学んだんですか」と尋ねると、「YouTube。漫画とアニメが好きで」と笑った。  「元々は楽な方に流れるタイプ」と自称する彼が、民主と自由を求めてデモを続け、2度逮捕・拘束されて負傷もした末に、22年10月に妻や愛猫2匹と日本に移り住んだ。政治活動や言論の統制が強まり、生計を立てる道も絶たれての苦渋の決断だ。  23年春からは東京大学大学院修士課程で東アジア政治などを研究し、SNSなどでの発信も引き続き、果敢に続けている。香港移民に特別ビザを発給する英国などと違い、彼のような存在は日本には多くない。経験や思いをRe:Ronに寄稿してもらったうえ、雨傘運動から9月で10年になるのを機にオピニオン面向けに加筆してもらい、5日に掲載した。  ただし香港政府は域外での活動にも目を光らせ、23年には日本留学中のSNS投稿を問われた女子大学生が香港で実刑判決を受けている。24年3月には国家安全維持条例も施行された。そうした懸念も含め聞くと、「今の香港にはもう帰れない気持ちで日本にいます。ぜひ書きたい」。  国境を越えても発言に覚悟が要る状況が同じ東アジアで続き、どんどん悪化している。そのことに思いをはせながら、葉さんの寄稿を読んでほしい。

香港から日本移住、民主活動家が寄稿に込めた思い リロン編集部から

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ベトナム戦争枯れ葉剤訴訟、パリで声上げる若者 取材続ける監督語る

 ベトナム戦争で米軍が散布した枯れ葉剤による猛毒ダイオキシンの健康被害は、直接浴びたり、汚染された農作物や魚などを食べたりしたベトナムの市民や兵士たちだけでなく、その子孫にも重篤な障害や健康被害などを及ぼし続けている。それでも米国は、帰還米兵には政府が補償をし、枯れ葉剤の製造企業も訴えられた末に和解金を支払っているものの、ベトナムの人たちには補償を拒んだままだ。  そんな状況に立ち向かおうと、製造企業を相手取った訴訟がフランスで続いている。控訴審まで敗訴したものの、その闘いの過程で原告からは「私たちは勝った」との声もあがる。  ベトナム戦争終結から来春で50年。今の地球環境・人権問題にも通じる、この裁判が問いかけるものとは。ベトナム帰還兵だった夫の急死を機に、枯れ葉剤被害を追い続けてきたドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さん(76)に聞いた。  ――フランスの訴訟は2014年、パリ郊外エブリーの裁判所で始まり、24年8月22日にパリで控訴審の判決が出ました。原告はどんな方なのでしょうか。  トラン・トー・ニャーさん(82)というフランス在住のベトナム人女性で、戦時中は南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)のジャーナリストでした。ジャングルで取材中、米軍機が散布した化学剤を浴び、その後、がんなどを患っています。長女は障害とともに生まれてまもなく亡くなり、次女と三女も体調が悪いそうです。最初は自分のせいだと思っていたそうですが、戦後、ベトナムの孤児をフランス人家族に養子縁組する仕事の中で、枯れ葉剤が原因とみられる障害を持った子どもたちに出会うようになり、長女の死や自分たちの病気も枯れ葉剤のせいではないかと考えるようになって、声を上げ始めたんです。ドイツでおこなった血液検査では、彼女の体内のダイオキシン濃度が高く出ました。  ――裁判はどんな経緯で始まったのでしょうか。  さかのぼると、これとは別に、ベトナムの団体「枯れ葉剤/ダイオキシン被害者協会(VAVA)」が04年から、ダウ・ケミカルやモンサントなどの枯れ葉剤製造企業を相手に米連邦裁で訴訟を起こし、09年に米連邦最高裁で棄却されています。米政府は帰還米兵には補償しているのに、このままでは不公平だということで、次に国際民主法律家協会(IADL)が09年、パリで「枯れ葉剤のベトナム人被害者を支援する良心の法廷」を開きました。法的拘束力のある法廷ではないですが、ニャーさんは被害者の一人として出廷。「亡くなった同胞や他の被害者のためにも声を上げたい」として証言しました。私も、被害を取材してきた一人としてここに出廷しています。 ■立ち上がったフランス弁護士  そこで、参加していたフランス人弁護士が「こんな不正を許したままではいけない」と立ち上がりました。フランス国籍を持つニャーさんに、弁護士は「長く難しい闘いになるけれど、その用意はありますか」と尋ね、ニャーさんはイエスと答え、そうしてフランスの裁判所での訴訟が始まりました。  ――結果、21年の一審判決も、24年8月の控訴審判決も、請求は棄却。判決文を見ると、企業側の「国防のために米軍に供与したのであり、裁判権は免除される」との主張が通り、ニャーさん側の「企業は入札に応じており、国家の命令ではない」との主張は認められませんでした。  今回、いちるの望みは持っていただけに、がっかりしました。  というのも、控訴審の取材のため5月にパリに行ったんですが、公判に先立ち、若者の団体などがパリのレピュブリック広場で支援集会を開いたんです。環境問題や人権に関心のある人たちも集まり、枯れ葉剤はエコサイド(環境の大規模破壊)だとの主張も上がり、18歳の女性2人がスピーチに立ったりしました。  枯れ葉剤の製造企業の責任を問う声は少なくとも1980年代からありましたが、結局、企業は国の命令に従っただけだから責任がないと言われ、その主張が今まで通っています。ですが、5月の公判の様子をまとめてくれた在仏ジャーナリストの飛幡祐規さんによると、ニャーさん側の弁護士は、国際法において、人権や人間の尊厳を侵害する犯罪に対して最近は責任を免除せず追及する傾向にあると主張したそうです。そこに若い人が共感していて、力強く感じました。環境活動家グレタ・トゥンベリさんがかかわる団体にいる人もいて、フランスの若者の環境や人権への関心の高まりを感じました。  ただ、ニャーさんは一審の判決後、「私たちは勝った。過去の忘れ去られた問題を今に引き出した」と言っていました。広く問題提起したいという意味合いが、この訴訟にあったのだと思います。最高裁までいくと言っていますが、82歳として最後の力を振り絞り、うやむやにさせないよう続けていくのだと思います。  ――坂田さんが枯れ葉剤の取材を始めたきっかけは2003年、ベトナム帰還兵だった米国人の夫グレッグ・デイビスさんが肝臓がんで亡くなったのがきっかけでした。 ■ベトナム帰還米兵の夫、30年以上経って急死  彼は米誌タイムの契約写真家などとして世界中を回っていて、ずっと元気だったんですが、54歳で急に具合が悪くなって入院。医師から「もう助かる見込みはない」と聞かされました。その時、ベトナム事情に詳しい彼の英国人の友人が「枯れ葉剤が原因ではないか」と言ったんです。もう30年以上も前なのに、まさかと思いました。出会ったばかりの頃、彼が「枯れ葉剤のことがあるから子どもを作らない」と言っていたことを思い出しましたが、普段、戦争の話はあまりしませんでした。  ――ご本人は、枯れ葉剤が原因かもしれないという意識はありましたか。  そんなことを考える時間もなかったと思います。  ――米政府は帰還米兵には補償していますが、対象になりましたか。  死因となった肝臓がんは、米政府が補償する疾病リストに入っていないんです。  ――すると、枯れ葉剤の影響を受けた帰還米兵であっても、補償されていないケースがあるということですね。  そうですね。ただ私は、なんとか請求して認めてもらおうとも思っていませんでした。  夫の死後、空虚な気持ちの中でどうしていいのかわからずにいました。そこで、何か手応えのあることをしようと思い、枯れ葉剤について取材し映画を撮ろうと、まずは米国で映画の撮り方を学びました。55歳からの挑戦です。そうして米国とベトナムで取材をし、07年に第1作「花はどこへいった」を完成させました。ベトナムについて勉強しようと、10年にはハノイで1年間暮らしました。  ――そうして枯れ葉剤の映画を3作撮りました。これまで何人の被害者に会ってきましたか。  数えきれないですが、100人以上にはなると思います。  取材を始めた当初は、枯れ葉剤の被害者はそんなにいるのだろうかと半信半疑でした。でも、行くところ、行くところ、次から次へといろんな人に会い、こんなにもいるのかと思いました。  頭が二つある男の子に会った時などは、最初はたじろぎました。でも、きょうだいたちとたわむれている様子を見て、家族の愛や、けなげに生きている様子が伝わってきました。私は「夫を亡くしてとにかく悲しい」という思いで取材を始めたけれども、私よりももっと大変な経験をしている人たちがたくさんいるんだと感じ、世の中を新たに見る視点をもらった気持ちにもなりました。  第1作「花はどこへいった」を完成させ、それで私の中ではある程度の区切りがついたように思いました。でも、問題自体は全然終わっていないと気づき、取材を続けることになりました。ベトナムや米国を訪問し、そのたびに新たな被害者に出会って、まだまだ語るべきことがあると感じ、3作、作ることになりました。 ■「また同じようなことが起きるかも」  ――今後も撮り続けますか。  昨年、ベトナム南部クチに行き、枯れ葉剤の被害者のいる施設を訪ねたんですが、本当に重度の障害をもった人たちが大勢いて、今もこんなにいるんだとショックを受けました。  来年、ベトナム戦争が終わって50年になります。戦争は解決したかもしれないけど、戦争が残したものは解決していません。  枯れ葉剤の問題は日本にとっても遠い話ではありません。枯れ葉剤と同じ成分を含む除草剤は日本でも使われていましたが、使用が禁止された後、処理しきれず、林野庁が全国の山林に埋めています。  こうした問題をうやむやにしたままだと、また同じようなことが起きるかもしれません。  ニャーさんたちも、最後の力を振り絞って、枯れ葉剤の恐ろしさをとにかく語り継ごうとし、裁判を続けている。それを助けるためにも、私ももうひと頑張りしようと思っています。 さかた・まさこ 1948年、長野県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。京都に滞在していた米フォトジャーナリストのグレッグ・デイビスさんと70年に結婚。76年から写真通信社インペリアル・プレスに勤め、のちに社長に。2003年に夫ががんで急死し、米兵としてベトナム従軍中に浴びた枯れ葉剤が原因ではないかと言われたのを機に米国で映画制作を学び、取材を重ねて映画「花はどこへいった」(07年)を制作・公開、毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞などを受賞。「沈黙の春を生きて」(11年)、「わたしの、終わらない旅」(14年)、「モルゲン、明日」(18年)、「失われた時の中で」(22年)と映画制作を続けている。NHKのETV特集「枯葉剤の傷痕を見つめて~アメリカ・ベトナム次世代からの問いかけ」(11年)を制作、ギャラクシー賞優秀賞ほか受賞。枯れ葉剤被害の子どもたちなどへの奨学金基金「希望の種」を共同設立。 ■言論サイトRe:Ron(リロン) https://www.asahi.com/re-ron/ 編集部への「おたより」募集中:https://forms.gle/AdB9yrvEghsYa24E6 Xアカウント:https://twitter.com/reron_asahi/

ベトナム戦争枯れ葉剤訴訟、パリで声上げる若者 取材続ける監督語る
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