(社説)芸術の公的助成 表現の自由 萎縮に警告

社説

 芸術表現への公的助成を、「公益」という抽象的な理由で拒否できるのは、限られた場合だけだ――。そんな司法の警告があった。

 文化庁所管の独立行政法人・日本芸術文化振興会(芸文振)が、映画「宮本から君へ」に対する助成を内定していたのに一転、不交付としたことの是非が争われた裁判で、最高裁は先週、不交付処分を取り消した。

 行政機関の処分をめぐる訴訟では、行政側が広い裁量を認められ勝訴することが多いなか、表現の自由の重みをふまえ裁量を限定してとらえた画期的な判決といえる。

 芸文振は、映画の出演者が薬物使用で有罪が確定したため、「公益性の観点から助成は適当でない」と主張した。

 しかし判決は、公益という概念がそもそも抽象的で、公益を理由とする不交付が広がれば表現行為を萎縮させ、憲法が保障する表現の自由の趣旨から見過ごせないと指摘。その公益が重要で、助成により害される具体的な危険がある場合に限って、助成しない事情として重視しうる、との考え方を示した。

 その上で、今回の例では、助成により薬物乱用の防止という公益が害される具体的な危険は認められないと判断した。実際、この助成があったからといって人々の薬物使用への意識が変わるとは考えにくく、説得力がある。

 判決の「重視すべきでない事情を重視し、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いた」という批判を、芸文振は率直に受け止めねばならない。

 芸文振は一審で敗訴し二審で逆転勝訴。このまま確定すれば、芸術的観点からの専門的な判断が、不明確な「公益」で覆される先例ができてしまうところだった。

 戦前には芸術活動を国家が管理下に置き、言論が自由を失った苦い歴史もある。文化助成の対象は芸術的観点から精査されるべきで、それ以外の要素で判断を変える場合、行政側の説明責任は重いと自覚すべきだ。

 今回の原告を含め独立系の製作会社にとって、助成が得られるかどうかは死活問題だ。芸文振は「芸術その他の文化の向上に寄与する」という目的に立ち返ってほしい。

 「あいちトリエンナーレ」の企画展をめぐり文化庁が補助金の一部を交付しない、展示の「安全確保の難しさ」を理由に公的施設が利用を認めないなど、各地で表現活動への公的支援のあり方が問題になってきた。表現の自由を守るべき立場の公権力が、萎縮をうみ出してはいないか。判決が届くべき先は広い…

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